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【ステレオサウンド179号】オーディオ巡礼~人生至高のシステムのために

ステレオサウンド178号で五味康祐さんの著書「オーディオ巡礼」に触れた記事を読んだ。私も五味康祐さんの著書には随分と影響を受けた一人である。一心不乱、命に掛けて、そういう言葉さえ安っぽく感じられるほどの情熱を傾けてオーディオと音楽に一生を捧げた人。私が五味康祐さんを知ったのは、彼が「占い師としてテレビに出ている頃」だった。浮浪者のように和服を着崩し、無精ひげにぼさぼさの髪。ピントが合っているようなあっていないような過激なコメントを繰り返す様。その頃は、五味さんのことを「頭のいかれた変な親父」としか思っていなかった。しかし、彼の没後随分経ってからオーディオ関連の著書を読んで、彼の本当の人となりを初めて知り、思わず涙が出た。 日本人は世界一「求道的な人種」だと評されるが、事実私たちはあらゆるものを「道」にしてしまう。茶道、書道、華道に始まり、一見下らないと思える日常の行為にさえ「道」を名付けて憚らない。それは単一民族の「偏ったものの見方」が高じたものかもしれないし、並外れた知的好奇心によるものかも知れない。とにかく日本人、特に男性は「凝り性」が多いようだ。オーディオ、カメラ、車は「男の趣味」の代表とされるが、日本人は特に顕著なのではないだろうか?そして「道」のために私たちは、時として命さえ賭す。 私はオーディオを生業とする。オーディオを職業に選んだのは、生まれつきの「凝り性」が活かせるからだが、それよりも「お客様に大きな喜びをもたらせること」が一番の理由だ。人より安くものを売るような商売は、絶対に長続きしない。栄華と衰退を極めた「ダイエー」が良い例だ。形あるもの定価があるものを安く売る商売には、必ず終わりがやってくる。今の日本の産業の衰退もそれを示している。所詮目に見えるものは「浅い」ものでしかない。「価格でものを選ぶような買い物」を続けても進歩はないし、ゴールには決して辿り着かない。大切なのは「目に見えない価値」を知り、そこから謙虚に学ぶことだ。 私は大学で「農芸化学」を専攻したが、実験に求められる「精度の曖昧さ」に嫌気がさしてその道に進むのは止めてしまった。今問題となっている「環境基準の見直し」は、今に始まったことではない。化学実験の結果(データ)など「経済の要求」の前ではどうにでも改ざんされる。例えそれが数十年後の地球のための素晴らしい研究であったとしても、経済効果が期待できず、今すぐに利益を生まない研究は無視される。予算を得るためのデータのかさ上げなど日常茶飯事だ。それが「世の中」というものだ。信じたものに裏切られる空虚な気持ち。自分が命を捧げたものに裏切られる空虚な気持ち。戦争は経験していないが、五味康祐氏が感じた「喪失感」は私にもよく分かる。その隙間を「音(音楽)」で埋めようとした気持ちにも共感を覚える。人生には「絶望的な喪失感」を経験したことがなければ、芸術の深さは分からないとさえ思う。人はどん底に落ち、初めて目が開く。 今のオーディオ雑誌やオーディオ製品に、この「喪失感」を埋めるに相応しい製品はあるか?絶望的な「乾き」を癒し、音楽を至高の芸術ちして再現できる装置はあるか?振り返ったとき、昔よりあらゆるものが「薄くなっている」と感じ、憤りすら覚えることがある。しかし、他方、恐るべき技術の進歩が今までになかった価値をオーディオに生み出している。今のデジタルサウンドを聞くことができたら、五味康祐氏はどのように評価するだろうか?それとも、つまらないこけおどしとおっしゃるだろうか? 五味康祐氏の考えと沿わないことが一つある。それは私が「高いもの」、「珍しいもの」を良しとしないことだ。オーディオの音楽性は、価格では推し量れない。まして希少性とは何の関係もない。問題は「心」である。求める心に応じられる音で音楽を鳴らせるか?それがオーディオの全てである。薄っぺらな専門店が多すぎる。音楽を知らないアドバイザーが多すぎる。あなたがもし「人生で巡り会うべきオーディオ」をお探しなら、私が全力でお手伝いしたいと思う。想像以上の音楽性が、あなたの人生を満たすに違いない。 ... 続きを読む

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