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	<title>ブログ逸品館 &#187; A&amp;V village</title>
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	<description>逸品館グループのスタッフ（逸品館、BAIR、e逸品館）が、オススメの逸品を毎日ご紹介します！</description>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 81号「いい音に個人差はない」</title>
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		<pubDate>Tue, 19 Sep 2006 04:36:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<category><![CDATA[社長のうんちく]]></category>
		<category><![CDATA[雑誌広告]]></category>
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		<description><![CDATA[前号では、言葉はデジタル的に音はアナログ的にイメージ（心象）を伝え、さらに危険を知らせる「クラクションの音」を例にあげて音が与えるイメージは万国共通だと説明しました。今号では、もう少し掘り下げて「なぜ音が世界共通の言語で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前号では、言葉はデジタル的に音はアナログ的にイメージ（心象）を伝え、さらに危険を知らせる「クラクションの音」を例にあげて音が与えるイメージは万国共通だと説明しました。今号では、もう少し掘り下げて「なぜ音が世界共通の言語であり得るのか？」その理由を「音」を「食べ物」に置き換えて考えてみましょう。<br />
「塩辛い」という概念を言葉で伝えようとするなら、話し手と聞き手には「同一の言語に対する理解」が必要になりますが、言葉ではなく双方が実際に「同じ塩辛い食べ物」を口にしたとすればどうでしょう？「塩辛い」と言う概念は、言葉を介さず瞬時に理解（共有）できるはずです。このように「言語」ではなく「感覚」なら、学習（言葉を覚える）の必要がなく、また人種や国籍にもかかわりなく理解（共有）できるのです。先ほど例にあげた「クラクション」という「音」が「味」と同じように人種や国籍にかかわりなく理解できるのは、「理」ではなく「感覚」に訴えるからです。人間の心象（心のイメージ）を「音」という「感覚」に置き換えるのが「音楽」です。だから「音楽」は「味」と同じように、人種や国籍にかかわりなく、また学習（音を覚える）の必要もなく伝わるのです。<br />
モーツァルトを聞かせたお酒が商品化されているのをご存じですか？モーツァルトを<span id="more-518"></span>酵母に聞かせながら発酵させると「味が良くなる」という話です。他にもモーツァルトを聞かせた果物や畜産物が発売されていますが、これらは決して「まやかし」ではなく科学的な証明がなされています。ある種の「音波」が与える振動には、生体内での必須アミノ酸の合成を活発化させる働きがあり、その音波を照射すると成長が促進され味や香りが良くなるのです。一般に知られている音楽の中では、モーツァルトにその音波が最も多く含まれているため、成長段階の生物（細胞）にモーツァルトを聞かせても同様の効果が得られるのです。モーツァルトは、肉体だけではなく、精神に対してもよい影響を及ぼすといわれ、実際に鬱の治療などに用いられるほどですが、このよう「音」は、感覚器官から直接脳に入り、人種や国籍を問わず、無意識下でも人間に様々な影響を与えます。<br />
私たちに澄み切って聞こえる音の組合せ、たとえば「ドミソ」というような和音は、「ほ乳類」に共通して「整った和音」に聞こえるといわれています。また、「長調は楽しく」「短調は悲しく」聞こえ「４拍子」は気持ちを高揚します。それらは、すべて「教育」や「人種」とは無関係の、人類共通の本能的（生まれ持った）感覚なのです。このように音楽は、モーツァルトのように細胞レベルで影響を与えるだけでなく、神経組織のレベルでも、人間の心に影響を与え、音色やリズム、メロディーに応じた「人類共通の感覚」は、確実に存在します。<br />
これらの音が脳にどのような影響を与えているか？考えてみましょう。私たちが音を聞いたとき（音という刺激を感じたとき）には、聴覚によって電気信号に変換された音波が左右の耳を基点として波のように脳全体に広がります。この脳の中に広がる「電気的な刺激＝パルス」がある一定のパターンを形成するときに、人間はその刺激を「心地よい＝いい音」だと感じるのではないでしょうか？聴覚からの情報だけではなく５感からの情報は、脳の中ではすべて電気的な信号として処理されます。この電気的な信号のパターンが、やはり「ある特定のパターンを形成するとき」に人間はその刺激を「心地よい」と感じるのだと私は考えています。この考え方だと芸術全般に「ある一定の尺度による評価」がくだせる説明にもなるのではないかと思います。<br />
さて、ここまでの説明で誰が聞いてもいい音と感じられる「普遍的ないい音」が存在することはご理解いただけたと思います。しかし、それにもかかわらずオーディオ機器の音質評価になった途端に「個人差」があんなにも大きくなってしまうのはなぜでしょう？同じ音のはずなのに、ある人は「良い」と言い、ある人は「悪い」と言うのです。それについて私は、次のような理由があると感じています。まず、オーディオマニアが聞いている音が「かなり悪い＝生音との違いが著しい」ことが大きな問題だと思います。彼らは自分の聞いている音を「いい音（水準の高い音）」だと信じているかも知れませんが、一度でも名器と呼ばれる楽器の音を生で間近で聞いたことがあるなら、その差が非常に大きいことはわかるはずです。生演奏の「いい音」は、本当に美しく、オーディオでは決して出せないのではないか？と感じるくらい感覚に強く訴えてきます。良い楽器の音は、「好き」とか「嫌い」とかそういう個人的な思いこみすら通り越して、誰の心にもダイレクトに響きます。いい音は、心を支配し「他には何も考えられなくなる」ほどの影響力を持っています。<br />
次のようにも考えられます。脳の中で「右脳＝アナログ脳」が音を「左脳＝デジタル脳」が言語を処理します。世界的には、風の音や動物の鳴き声などは、楽音と同じように右脳に入るのですが、日本人だけがそれらも左脳に入るという特異性を持っています。つまり、本来は右脳で聞くべきオーディオシステムの音も日本人は左脳に入りやすいのです。音楽を聞こうとするときに「技術的な先入観や雑念」が発生すれば、左脳の働きが強くなり、それが音楽を感覚的に捉える大きな妨げになると考えられます。つまり、技術的な背景や価格に対する思いこみが強ければ強いほど、「音の聞こえ方」が雑念に支配され「耳に届く音が良いかどうか判別できなくなる」のです。時折、奥さんや彼女の方が「素直に音を聞けるから信頼できる」と連れの男性が仰いますが「先入観がない方が音をフェアに感じられる」良い事例だと思います。<br />
いい音は測定できず、人間にしかわかりません。機器の判断は聞くしかありません。人間の体は非常にデリケートで間違いを犯しやすいですが、雑念や思いこみを捨て感覚をフェアに保つことが出来れば「いい音」は誰にでも簡単にそして確実に聞き分けることが可能なのです。事前の知識なしに音を聞き分けるのは、少し頼りない感じがするかも知れませんが、実はそれが一番確実で正しいのです。音楽を聴くときには、よけいなこと（価格・テクノロジー・メーカーなどの先入観）を考えずに、感覚に神経を集中してください。<br />
特に注意して欲しいのは、生音と比べて「どれくらい細かく音が聞こえるか？」という試聴はまったく役に立たないということです。大切なのは、再生音が生音を聞く感覚（自然な感じ）に近いかどうかということで、音の純度はさほど重要ではないのです。<br />
音楽を聴いてわかりにくいときには、川の流れる音や波の音などが収録されたソフトを再生すると、音楽に対する思いこみ（個人的な好き嫌い）からも解放されて、違いが非常に明確にわかることがあります。迷われたときには是非一度お試し下さい。次号では、どんな音なら「音楽を自然に感じられるか？」について説明したいと思います。</p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td><img src="http://www.ippinkan.com/OP_OOP/seseragi.jpg" alt="" width="150" height="150" /></td>
<td><a href="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no81_nami.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-568" title="av-village_no81_nami" src="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no81_nami.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a></td>
</tr>
<tr>
<td><strong>「せせらぎ」DELLA　NSG-004　44分</strong><br />
1. 春のせせらぎ　2.  森と水のしらべ　3. 渓流のささやき　4 .水辺にて<br />
<strong>全4曲　　税込価格:￥1,365</strong></td>
<td>「<strong>波～慶良間・久米島」DELLA　NSG-009　60分</strong><br />
1. 渡嘉志久（渡嘉敷島）　2.  阿波連（渡嘉敷島）　3. 古座間味（座間味島）　4 .アーラ浜（久米島）　5. イーフビーチ（久米島）　6.  はての浜（久米島）<br />
<strong>全6曲　　税込価格:￥1,365</strong></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>DELLAから発売されている「自然音」シリーズのCDソフト。単純なマイク構成で収録されており、自然な立体感が再現できる。川の流れる音、並みが消える水泡の弾ける音を再生したとき、自然な音の装置なら「一瞬にして部屋が川辺や海辺に変わってしまった」ようなイメージが再現する。音が良くてもシステムのバランスが悪いと、不自然で人工的な音に聞こえる。装置の人工的な歪み感をチェックするには音楽よりも適している。音質チェックだけではなく、エージングやシステムの音質改善（エンハンス）にも大きな効果がある。安いけれど大きな価値のあるソフト。<a href="http://www.ippinkan.com/OP_OOP/option_oop_maintenance.htm" target="_blank">ご注文ページへ&gt;&gt;</a></p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 80号「音楽を「聴く」ということ」</title>
		<link>http://blog.ippinkan.com/archives/20060719133551</link>
		<comments>http://blog.ippinkan.com/archives/20060719133551#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 19 Jul 2006 04:35:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
				<category><![CDATA[A&V village]]></category>
		<category><![CDATA[社長のうんちく]]></category>
		<category><![CDATA[雑誌広告]]></category>
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		<category><![CDATA[オーディオ]]></category>

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		<description><![CDATA[前号では、主に録音という「ハード面＝機器側」からの問題点を取りあげ、「音の精度や純度を高めれば＝音楽の再現性がより高まるという考え方はオーディオに通用しない」という自説を展開いたしました。今号では、「ソフト面＝人間側」か [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前号では、主に録音という「ハード面＝機器側」からの問題点を取りあげ、「音の精度や純度を高めれば＝音楽の再現性がより高まるという考え方はオーディオに通用しない」という自説を展開いたしました。今号では、「ソフト面＝人間側」からみても同じ結果になるという私の考え方を説明いたします。<br />
まず、音楽を聴く（音を聞くのではないことに注意）ということがどういう事なのか？私は、次のように考えます。「静けさや 岩に滲み入る  蝉の声」という有名な芭蕉の句があります。この句で芭蕉が表現したかったのは「静けさ」です。その「静けさ」をより「深く表現する」あるいは「的確に伝える」ために、あえて「無音」ではなく、正反対とも言えるうるさい「蝉の声」を使っているのがこの句の「真髄」ですが、この句から「芭蕉が意図した静けさ＝芭蕉が表現、伝えようとした風景」を「読み取る、感じ取る」ためには「蝉の声」と蝉が鳴いている「日本の夏の風景」を知らねばなりません。もし、あなたが「蝉」を知らなければ、この句は意味をなさないでしょうし、さらに言うなら「岩に滲み入る  蝉の声」という文章の「深さを想像」できなければ、やはりこの句の「本当の良さ」は伝わりません。<br />
分析を進めましょう。<span id="more-517"></span>この句は「静けさ」・「岩」・「滲み入る」・「蝉の声」という、それ自体では深い意味を持たないたった４個の単語が「定められた規則」、あるいは「意図（計算）された順序」に並べ替えられることで、初めて「深い意味」が与えられているのです。つまり、この「句」の重要なポイントは「全体の構成（流れ）」であって、その「個々のパーツ」ではありません。この句の意味を深く理解しようとすれば「単語」一つ一つよりも「全体の流れ」に注目すべきです。そしてこの句が表現する「静けさ」という事象をどのように把握するか？あるいは想像するか？それはすべて「句を詠んだ芭蕉の力」ではなく「句を読むあなたの創造力の豊かさ」にゆだねられているのです。芭蕉は「静けさ」を彼なりの「表現（言葉）」に置き換えただけです。この時点では、彼の「句には命がなく」単純な文字の羅列にしか過ぎません。この文字の羅列から「何を想像するか？」その「創造力」が彼の句に「命を与える」のです。「命」を与えるのは、「あなた自身」であって句を読んだ芭蕉でも、それが書かれた色紙でも、色紙に文字を書いた人でもないのです。芸術に「命（価値）」を与えるのは「あなた自身（あなたの感性）」なのです。<br />
私が何を言いたいか、伝えたいか、勘の鋭い人ならすでにおわかりだと思います。まだ私も問題の端っこにたどり着いただけで、完全に解明できるはずのない、そして永遠に解明できるはずのない「芸術」という、素晴らしい「曖昧さに満ちた世界」を「説明文」という色気のない「固定概念に満ちた不完全な文字」に置き換えて無理矢理説明するのは、私の理解力や文章力では到底不可能なことです。すでに私が何を言いたいかおわかりならこの先をお読みにならない方が良いかもしれません。しかし、難問？を投げかけただけで、解決のヒントすら与えないというのはあまりにも残酷ですから、私にできる範囲内で考え方や感じ方を書いてみたいと思います。<br />
芭蕉の「俳句」という「文字」から「芸術」を読み取る、あるいは感じ取る方法と「演奏」という「音」から「芸術」を聴き取る、あるいは感じ取る方法にはいくつかの明確な違いがあります。一番大きな違いは、それぞれを構成している最小単位（いわば原子とよべるもの）が「言語」か「音」であるという違いです。私たちは意識せずに「日本語」を話しますが、それは生まれ育った環境で「日本語を身につけた」からであって、生まれながらに日本語を理解できたわけではありません。「言語」は、教育によって身に付くものであり、生まれたときには「白紙」の状態です。これに対し「音」に対する反応（感性）は、生まれながらにして身に付いています。ＤＮＡに刻まれている？と言うほうが正確なのかも知れませんが「心地よい」と感じる音は、老若男女、人種を問わず全人類にほぼ共通しています。「不快」と感じる音も同じです。もう少し掘り下げましょう。「言葉」を持つのは人類だけであると言われていますが、では動物はどのようにして「コミュニケーション」をしているのでしょう？それは「うなり声や鳴き声」です。動物たちは「うなり声」という「音」でコミュニケーションをするのです。私たちも<br />
普段は気に留めませんが「音によるコミュニケーション」を様々なところで行っています。例えば、「車のクラクションの音」は操作パネルの「文字」とは違い、輸出先の国によって細かく変えられることはありません。「危険を知らせる音」は、全人類に共通の「コミュニケーション」として、国境や人種とは無関係に「成立」するからです。<br />
このように言語と異なり音は、「万国共通のコミュニケーション」です。しかし、万能ではありません。「音楽」は、人間の「気持ち」や「感動」という非常に曖昧で「量的に計ったり」、あるいは「言語に正確に変換できない心の動き（言葉に換えられない感動）」を伝えるには適していますが、「数量」、「契約」という「明確な事項（明確に定められた概念）」を迅速かつ明確に伝えることができません。また、それらを「正確に保存（記録）」することも不可能です。これが「言語」と「音楽」の明確な違いです。言い換えれば、「言語」は、「固定された明確な概念を正確に伝達できる＝デジタル的な」特異性を確立するために「曖昧なものを曖昧なまま伝える＝明確化できない概念をそのまま伝える」という部分を切り捨てているのです。そういう「デジタル的な伝達しかできない言語」にすら「俳句」のような「芸術性を与えた」人類の創造力は驚くべきものですが、<br />
「心のコミュニケート」という「情報伝達」をに限定した場合、「デジタル的伝達」しかできない「言語」は「アナログ的伝達」が可能な「音楽」にくらべて、圧倒的に不利なのは否めません。だから我々は、「言語」が発達した今でも「音楽」という「アナログ的伝達手段」を残しているのでしょう。<br />
ここまでの説明で「音楽」は、「数量」、「契約」といった「明確な事項」ではなく「心の動き」という「曖昧なもの」を伝えるための「手段」だということはご理解いただけたと思います。次に「音楽が伝えるべきもの」あるいは「音楽の真の目的」を考えましょう。逆説的に言えば、「心」を伝えるために「音楽」は生み出されたのですから、音楽の伝えるべきものが「人の心」だということに異論はないはずです。では「音楽の真の目的」とはなんでしょう？もし、人類が自分の心を他人に伝える必要がなければ「音楽」は生まれなかったはずです。では、なぜ人類は「他の人に自分の心を伝える必要」があったのでしょう？それこそが「音楽の真の目的」の答えとなるはずです。<br />
それについて、私は次のように考えています。私たちの「喜怒哀楽」は、自分自身の心の中から突然生まれるのではなく、感情は他の人間の存在や他の生物の存在によって生み出されます。もし、地球上に生き物があなたしかいなかったらどうでしょう？数日？あるいは数週間の内に、あなたは「寂しさに耐えきれなくなって」死んでしまうかもしれません。人間は、「一人では寂しい」つまり「他の人の存在を確認したい」生き物なのです。「喜び」・「怒り」・「悲しみ」・「楽しみ」、それらのあらゆる「感情」は、あなたの中にあるのではなく「他の生き物を通じてその存在を確認すること」で生みだされ、あなたという存在は、「他の生物の存在を確認すること（他の生物との共存を確認すること）」で初めて成り立っているのです。話をまとめましょう。音楽は、人類が「集団」の中で「特定の心の動き」を素早く伝達するために生み出され、その「伝達の最終目的（音楽の真の目的）」は、特定の心の動きをできるだけ早く、できるだけ多く、他人と「共有すること（分かち合うこと）」がふさわしいと思います。<br />
オーディオで音楽を聴く目的もまったく同じです。オーディオシステムから流れる「音楽」を聴いて、どれだけ多くの「想い」に心を馳せることができるか？その「音楽」が作られ、演奏された背景から「何を感じ」、「何を共有する」ことができるのか？それこそがあなたの聴く「音楽の価値」であって、それ以上でも以下でもありません。「音楽」から切り離された状態で「音」だけを聞き、その善し悪しに一喜一憂するのは「音楽を聴く」という目的とはまったく異なる行為です。オーディオシステムの音質改善をお考えなら、この点には十分に注意して欲しいと思います。<br />
私の尊敬する指揮者の一人である「セルジゥ・チェリビダッケ」は、録音を嫌ったことで有名でした。彼の生前、彼の演奏は「一切の録音」が許されなかったほどです。それは、録音－再生という一連の「変換」によって「彼が意図する音楽、あるいは演奏が正確に伝わらなくなる＝作り替えられてしまうこと」を極端に嫌悪したからです。確かに、先号でお話ししたように「ソフトの製作」には、様々な大きな問題があり、その点では彼の主張はもっともだと納得できます。しかし、最近になって私は思うのです。彼は、もっと「聴衆」を信じても良かったのではなかろうか？と。否、音楽の解釈は本来「聴衆」の手にゆだねられ「聴衆」がなすべきものであって「指揮者」がなすべきものではないとさえ考えるようになっています。現実の演奏においても作曲者が意図したとおりに、つまり「作曲者の頭の中で鳴っていた音楽」が「ありのままに再現される」事などあり得ません。作曲された当時と今では「楽器自体の音」すら違っていますし「演奏される環境」だって、一部の違いもなく同じに再現しうるはずがありません。<br />
彼ら偉大な指揮者や演奏家達が「演奏の純粋性」を何よりも重んじる気持ちはわかりますし、それに異論を唱えるつもりはありませんが、「音楽」とは、作曲者、演奏者、指揮者が意図しない瑕疵、不完全さすら寛容に包括して成り立っていると思うのです。より高い次元、より大きな観点からみれば、録音－再生という一連の流れの中で生じる「改変」ですら「音楽を破壊」することなどできないと思うのです。だからこそ、これほどまでにオーディオは愛されているし、万人に価値を認められているのです。「セルジゥ・チェリビダッケ」が、本当に嫌っていたのは「音を聞いて音楽を聴かない人々の存在」や「音楽を金儲けの手段としてしか見ていない連中」であって「豊かな心と創造力を持つ聴衆の存在」ではなかったはずです。もし、安価なCDラジカセで彼の演奏を聴き「人生が変わるほど感動したリスナーが存在する」ことを知れば、彼はきっと天国で微笑んでくれるはずです。<br />
オーディオシステムから発せられる「音」は、人と人の心を結ぶ「架け橋」であって、お客様をオーディオショップにつなぎ止めるためのものではありません。まして、それをネタにつまらぬ自説を展開するためのものでは決してありません。ですから、つまらぬ話に耳を傾けたり、人の言うことを気に病んだりする必要などまったくありません。なぜなら「言葉にできないこと」を伝えるために生み出された「音楽」を「言葉」で語ることなど、未来永劫誰にも決してできるはずがないのです。そして何よりも忘れないでいただきたいのは「音楽を感じる心」は、生まれながらにして「あなたの中に備わって」いて、「音楽は特別な勉強や研究などしなくても、誰もが平等に感じることができる」のだということなのです。（以下次号に続く）</p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 79号「再生とは音楽に命を与えること」</title>
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		<pubDate>Fri, 19 May 2006 04:34:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<description><![CDATA[究極の純度を目指して…
当初、私は「録音された音を可能な限り正確に元に戻すことが音楽を蘇らせる唯一の方法」と考え、その「究極の純度」を目差して、極限まで音の精度を高める実験を行うことにしました。マイク、マイクアンプ、コネ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3 class="t2">究極の純度を目指して…</h3>
<p>当初、私は「録音された音を可能な限り正確に元に戻すことが音楽を蘇らせる唯一の方法」と考え、その「究極の純度」を目差して、極限まで音の精度を高める実験を行うことにしました。マイク、マイクアンプ、コネクトケーブル、録音機器など「録音～再生」に関わる全ての機器を市販状態からさらに自分で手を加えて可能な限り高性能化しました。中でもマイクスタンドの不要な振動の低減のためオーディオ用高性能インシュレーターを使用したときのめざましい効果は忘れられません。さらに、音質だけではなく「音の広がり=定位感」を完全に再現するために、収録時のマイクと再生時のスピーカーの位置関係を一致させることを試みました。録音時の左右マイクの距離（幅）とプレイバック時のスピーカーの左右の距離（幅）を同一にすれば、音源までの距離感のズレが少なくなるだろうと考えたのです。<span id="more-516"></span></p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td><a href="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_a.gif"><img class="alignnone size-medium wp-image-564" title="av-village_no79_a" src="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_a.gif" alt="" width="225" height="120" /></a></td>
<td><a href="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_b.gif"><img class="alignnone size-medium wp-image-565" title="av-village_no79_b" src="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_b.gif" alt="" width="225" height="119" /></a></td>
</tr>
<tr>
<td>収録時にマイク(▼)とステージの音源まで距離角度を合わせて収録すると、２本のマイクの捉えた空間情報だけが収録される。</td>
<td>再生時にスピーカー(▲)をマイクと同じ幅に設置し、正三角形を描くように精密に角度を調整して再生すると、マイクが捉えたのと同じ空間情報が再現される。(音場がクリア)</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p class="para">この距離の一致を確実なものにするため、収録時のマイクの幅を約1.8m程度にしてマイクとステージの中央付近から左右マイクまでの距離をメジャーで測って等距離とし、さらにマイクの角度をこのポイントから照射したレーザー光線がマイク(マイクに張り付けた鏡）に当たって正確にポイントに戻るように(マイクのエレメントがポイントに対して正確に正対するように）設置し録音を行いました。再生時にはスピーカーの幅を録音時のマイクの幅と同じにした上でレーザーセッターを使ってスピーカーがリスニングポジションに対して正確な正三角形（２等辺三角形でも問題ないと思います）に位置するように厳密に調整して再生しました。すると驚くべきことにコンサート会場とリスニングルームで聴いている音が「ほぼ完全にイコールになった」と言って差し支えないほど自然で広大な音の広がり（音場空間の一致）とリアリティーが高くかつて経験したことがないほどの正確な楽器の音色の再現（音質の一致）が実現し、コンサートと見まごうばかりの「音楽の再演」が可能となったのです。ところがこの装置で市販ソフトを再生すると「？？？」期待していたのとは正反対。音楽が全然心地よい良い音で鳴らないのです。音の広がりが不自然で、楽器が重なったように音がぐちゃぐちゃに混ざったり、個々の楽器がてんでバラバラになっているように聞こえます。（それぞれの演奏者が自分勝手に相手のことを考えず演奏しているように聞こえる）まとまりがなくハーモニーも濁り、なんだかうるさくって音楽に集中できないような音なのです。<br />
それは現在行われているレコーディングが収録時に３本以上のマイクを使用し、それぞれのマイクの信号を専用のトラックに収録した後、それらをミキシングすることで作られていることと無関係ではありません。このような録音はマルチマイク(マルチトラック）録音と呼ばれています。この方式では、録音しようとするコンサートをいくつかのパーツ（部品）に分け、個々のパーツを他のパーツと干渉しないように、専用のマイクとレコーディングトラックで収録します。なぜなら、「演奏」は常に完璧なものとは限らず「現場での収録」も同じなので、このように一つの音楽（演奏）をいくつかのパーツに分けて録音しておけば、後日一部のトラックの音量を調整して特定の楽器（ボーカル）の音の大きさを変えたり、場合によっては「ミス」した部分だけを演奏し直して差し替えるなど、最終段階での音作り（音楽を傷のない商品に変える、もっと魅力的な音にする＝マスタリング）時の「切り取ったり」、「張り付けたり」、「入れ替えたり」という作業が非常にやりやすくなるのです。特に音源がデジタル化されてからは編集機の機能と性能が飛躍的に高まり、アナログ時代に比べマイクと収録トラックの数は数倍以上に増えています。<br />
しかし、非常に上手く編集されたソフトであってもオーディオマニアが使うような異常に性能の高い装置（一般的ではないという意味で）で聴けば、レコーディングエンジニアが意図しなかったほどの（ほぼ目立たなくしたはずの）編集時の欠点が克明に再現され、まるでゴーストだらけのＴＶを観ているように音場が歪んだり、音が濁ったすることがあるのです。つまり、性能の低い装置では「マイクの捉えた直接音」しか再現しないため、「重なりの濁り」が表面化しないのですが、性能の高い装置では、本来聞こえてはいけないはずの「マイクの捉えた間接音（マイク周辺の空間情報）」まで再現され、それが仇となって先に述べたようなゴースト問題が生じてしまうのです。</p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td><a href="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_c.gif"><img class="alignnone size-medium wp-image-566" title="av-village_no79_c" src="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_c.gif" alt="" width="225" height="183" /></a></td>
<td><a href="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_d.gif"><img class="alignnone size-medium wp-image-567" title="av-village_no79_d" src="http://blog.ippinkan.com/wp-content/uploads/2008/06/av-village_no79_d.gif" alt="" width="225" /></a></td>
</tr>
<tr>
<td>収録時にランダムに設置した多数のマイク(▼)を使用すると、それぞれのマイクが捉えた空間情報も収録される。</td>
<td>再生時に２本のスピーカー(▲)だけを使用しても、マイクが捉えたそれぞれの空間情報が再現され、「多重」になって再現されてしまう。(音場が濁る)</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3>CDの音質がマスターに比べて著しく劣化している</h3>
<p class="para">もちろん、この問題の対策のため各パーツの音を完全に他のパーツから遮断すべく演奏者を独立したブースに入れて収録したり、指向性の強いマイクで録音を行ったり、超精密な編集機器（プロツールスという編集機が業界標準）で仕上げの作業を行うなど、欠点を「極力目立たなくする努力」は行われています。しかし、残念ながらすべてのソフトを「最高水準で仕上げる」ためには、商業的にコストが許されないため市販ソフトには問題が残されたものが多いようです。さらに残念なのは、マスタリングであまりにも多重ダビングを繰り返すためか、販売段階でのCDの音質がマスターに比べて著しく劣化していることです。<br />
結局、オーディオマニアの一般的な認識とはまるで逆に再生装置の「物理的な精度」を高めれば高まるほど（音をよくすればよくするほど）マイクの位置の不整合、ミキシング時の音量調整の未熟さや各パートの整合性の低さ・・・、数え上げればきりがないほどの「ソフトの粗（録音の問題）」が明確になり、さらにそれを何とかクリアしても、今度はスピーカーの位置のズレ、その日の温度や湿度による音の違い、電源による音の違い・・・、といったいわゆる再生時の環境の問題が発現するなど様々な問題が気になってとても音楽に集中できる状態ではなくなるのです。この状況を例えて説明するなら、白い紙の上の小さなゴミを見つけるようなものです。装置の精度を上げることはすなわち「紙を白くすること」。問題を解決すると言うことは「目立っている大きなゴミを拾う」ということです。「紙は白いほどゴミが目立ち＝装置の性能は高ければ高いほど問題は露呈しやすく」さらに「大きなゴミを拾えばそれまで目立たなかった小さなゴミが気になる＝問題を解決すれば別の問題が露呈する」ということになります。繰り返しになりますが、装置の物理的な性能が向上すればするほど、それ以前は目立たなかった問題が表面化し、それをクリアすると、また隠れていた別の問題が浮かび上がる。それを解決しても・・・とその繰り返しが続くばかりで永遠に安心して音楽を聴けるようには鳴らないのです。やり方がまずかったのかも知れませんが、「再生装置の精度を高めるのは焼け石に水」それが私がたどり着いた「原音追求」の結末です。  この経験を踏まえ私は、ソフトに収録された音楽は「破壊されている=仮死状態になっている」と仮定し、再生時に再び生命を与える（蘇生させる）べきではないか？と考えています。（以下次号に続く）</p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 78号「メディアの責任」</title>
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		<pubDate>Sun, 19 Mar 2006 04:33:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<description><![CDATA[皆さん、お久しぶりです。Ａ＆Ｖビレッジが掲載していた「健康食品」に問題が発覚した関係で、しばらく本誌を離れていました。私が広告と記事の掲載を始めるにあたって、私が考えるメディアの責任というものの考え方をお伝えしておきたい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>皆さん、お久しぶりです。Ａ＆Ｖビレッジが掲載していた「健康食品」に問題が発覚した関係で、しばらく本誌を離れていました。私が広告と記事の掲載を始めるにあたって、私が考えるメディアの責任というものの考え方をお伝えしておきたいと思います。<br />
ちょうど「ホリエモン事件」が問題となっているので、それを例に挙げたいと思います。ホリエモンは、球団買収のニュースを切っ掛けとしてメディアをにぎわすようになりました。その後は皆様もご存じのように、まるで「タレント扱い」でＴＶにＣＭに引っ張りだこでした。ところが「時代の寵児」と祭り上げておきながら「逮捕」の一報が入るやいなや各局はこぞって「自粛」あるいは「降板」を決めまるで悪者扱いです。<br />
この変わり身の早さ。取りあげ方の極端さが無責任でないなら、何を無責任というのでしょう。<br />
ホリエモンが登場した当初は、私も「若者の代表」・「向こう見ずな若武者」という好印象を持っていたのですが、すぐに「単なる金の亡者」だとわかり、ホリエモンを初めとする村上ファンドなどのＩＴ関連投資会社を冷ややかで軽蔑した目で見るようになりました。確かに「働かずして大金が儲かる」と言われたら、誰でも心が傾きます。でも<span id="more-515"></span>よく考えてください。株式投資で得られる「利益」は、正当な労働の対価としてもたらされたものではありません。パチンコや宝くじなどのギャンブルと同じで「誰かが損失を被った結果、分配された利益」なのです。もっと簡単に言うと「ズル」をして得られたお金なのです。<br />
今は、株式市場にお金が流れ込み、バブルの頃のような盛況がもたらされていますが、もし何かあって市場から資金が引き揚げられたなら？あなたの持っている株券や預貯金はたちまちただの「紙くず」になってしまうでしょう。もし日本が「株式投資を国家事業」としていたなら国が滅びます。<br />
メディアがこぞって「単なるお金の亡者」を祭り上げた結果、誰も「真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなり」日本が滅びたらその責任は誰が取るのでしょう？メディアにその責任はないのでしょうか？<br />
逆に考えてみましょう。ホリエモンの登場時に全メディアが「真面目に働かずに大金を得るなんてもってのほかだ」と正論を投げかけていたらどうでしょう？多くの国民は、正当な労働に誇りを持ち日本はより一層栄えたかも知れません。もしそれが現実となったとき、メディアはきっと我先に「功を自慢」することでしょう。<br />
結局、今のメディアは、一貫した「論理、哲学、主張」を持たず「流行」と「それに伴う利益」を追いかけているのではないでしょうか？それでは、まったく中身のない「株式市場」と同じではありませんか？<br />
メディアの利益とは一体なんでしょう？自分の放送局、自分の雑誌社、そこに在籍する人達が「食える」と言うことは確かに大切でしょう。でも、もし毒のある食べ物を販売して利益を得たとしたら？「食品衛生法」の取り締まりの対象となるでしょう。車などの工業製品にも「安全基準」が定められており、各社はそれを厳守しなければなりません。ユーザーに危険なもの、ユーザーの命を危険にするようなものを作ったり、販売できないように「法」による規制があるのはご存じだと思います。でも、メディアが流す情報に対する「規制」と「罰則」は、あまりにも緩やかです。言論の自由と言いますが「自由」には「責任」が伴うと「道徳の時間」に学んだはずです。<br />
メディアは「お金を払って情報を買う視聴者」に対し「視聴者が不利益となるような情報は排除」するくらいの「見識」があってしかるべきだと思うのです。何でも「面白いから」・「儲かるから」そんな理由だけであらゆる情報を垂れ流しにして良いわけはありません。もし、そう言う「倫理観」が欠如するなら、出来の悪いインターネットの掲示板と同じです。<br />
最近あらゆるメディアが情報提供のプロとしての「プライド」を失ってしまったと考えるのは私だけでしょうか？まあ、一国の代表者でさえホリエモンを持ち上げたことを「人のせい」にしてしまう国ですから、メディアにそんな「高い道徳意識」を求めること自体、無理なのかも知れません。なぜなら、「働かずに大金を得る方法」・「濡れ手に粟の金儲け」を一番狙っているのは、彼ら自身なのかも知れないのですから<br />
さて、長い愚痴はこれくらいにしておいて、私がなぜ広告と記事の掲載を再開するかを説明します。弁証法という言葉をご存じでしょうか？「テーゼ」(These)という「ある命題」に対して「アンチテーゼ」(Antithese)という「反命題」が発生して対立した場合、そのどちらかを捨て去って選択するということではなく、それぞれの短所を上手く捨てつつ、二つの命題の総合的なものが成立するという考え方です。対立するものがつぶし合うのではなく、議論によって相互の問題点を明確にし、高め合って総合に到達し「アウフヘーベン」(aufheben)と呼ばれる「新たな高み」へと発展させる。という議論の展開方法です。<br />
弁証法には終わりはなく、到達した新たな高みが「新たなテーゼ」となり、またそれに対する「アンチテーゼ」が立てられ、そして「総合」が生まれ、またその「テーゼ」、「アンチテーゼ」・・・・・・・・・・と果てしなく発展を続けるのです。<br />
ここしばらくのＡ＆Ｖビレッジの読者の議論や、閉鎖されたＡ＆Ｖビレッジのホームページの掲示板に足りなかったのが、この考え方だと思うのです。意見は意見として正当に評価し、それに対し真摯な答えを返す。公平な倫理観と道徳観を持って、誠実に議論を交わす。そう言うごく当たり前の小学校の道徳の時間（今でもあるのかな？）で習ったような、議論や会話を進めるための基本中の基本（国会でもまるで守られていないが）に沿って、堂々と意見や反論を発表し、持論を展開するために、私は記事を投稿し、広告を再開することに決めました。<br />
「命題」に対して「反命題」が生まれ、議論が白熱するという部分では、オーディオ（アクセサリーや技術解説なども含む）の評価や音楽の評価も同じです。違いがあるとすれば、個人的な「多様性」が認められることでしょう。<br />
悪い音を出していても、それが大きな音でない限り「誰にも迷惑」はかかりません。自分自身が「良い」と思った音を出せばよいのです。究極の自己満足の追求が許されることが、一般的な議論と違うところです。しかし、それを「人に押しつけるようになる」と事情は変わります。「正しい音」と「好きな音」は違います。同様に「いい音」と「好きな音」も明確に違います。前者は「普遍性」を持ちますが、後者はそれを持ちません。「一人でも多くの満足を求める」ことと「ただの自己満足」は、まったく違います。<br />
多様性という言葉で何もかもを「ごちゃ混ぜ」にするのではなく、私が意見を述べることで一つ一つの命題や議論を「整理」するお手伝いが出来ればと考えています。</p>
<p>2006年3月　清原　裕介</p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 68号「すべての山に登れ！」</title>
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		<pubDate>Sat, 19 Jun 2004 04:31:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<description><![CDATA[サウンド・オブ・ミュージックの挿入歌「すべての山に登れ」をご存じだろうか？人生を託せる「夢」が見つかるまで、諦めずに「あらゆることにチャレンジしなさい」という内容の歌だ。戦後～1960年代に作られた映画には「時代を超える [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>サウンド・オブ・ミュージックの挿入歌「すべての山に登れ」をご存じだろうか？人生を託せる「夢」が見つかるまで、諦めずに「あらゆることにチャレンジしなさい」という内容の歌だ。戦後～1960年代に作られた映画には「時代を超える名作」が非常に多い。<br />
CＧ(コンピューター・グラフィクス)など無かった時代、「野外ロケ」が多用される作品では、「一つ一つのシーンの撮影」に「自然が味方してくれる」まで、どれだけの時間を掛けたことだろう。<br />
撮り直しのきかないカットで「極限の緊張状態」を強いられ、そのプレッシャーをはねのけて「のびのびとした演技」を求められた「俳優」の力強さ。挿入される音楽も「後編集」が許されず、全てのテイクが「生演奏一発録音」で収録されている。演奏家も、同じ極度のプレッシャーにさらされたことだろう。そういう「緊張感」の中でも「力をフルに発揮できる」圧倒的な天賦の才がある人達だけが選ばれ「芸術の高み」に登ることを許されたのだ。だからこそ、当時の映画は「完成度」が非常に高く「永遠にその輝きを失わない」。<br />
今これらの名作を観直してみると、<span id="more-514"></span>子供の頃には「わからなかった感動」・「読み取れなかった感動」が胸を熱く満たす。映像の美しさ、音楽の美しさ、製作に携わった人々の「心の美しさ」、一点の曇りもなく「芸術のために身を捧げた」潔さ。成長と共に初めて「実感」出来る「芸術の深さ」がそこにある。<br />
私が「心を込めて作り上げたAIRBOＷ製品」が完成した時、その「映像」と「音」を真っ先に「観て」・「聴いて」欲しいと願うのは、名作に携わった人達なのだ。彼らの努力には及ぶべきも無いが、私もその「深い感動」をすべてのお客様と共に「分かち合いたい」と強く願っている。<br />
その「願いが成就する瞬間の感動」を一人でも多くの人と分かち合いたい！その願いを成し遂げるために、「すべての山に登れ！」その言葉を忘れることなく、知識を広げ、感性をフェアに保ち、チャレンジを続けたい。今年の「オーディオワールド」でも、昨年よりも大きくジャンプアップした「感動」をよりリーズナブルな装置でお届けしようと考えています。</p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 67号「閉ざされた時間・開かれた時間」</title>
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		<pubDate>Mon, 19 Apr 2004 04:30:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「人はパンのみにて生きるものにあらず」キリスト教の信者でなくとも一度くらいはこの言葉を耳にしたことはあるはずだ。それは、「生きるためには無駄も必要である」という意味なのだろうが、「趣味」という「無駄」は時として人生をとて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="para">「人はパンのみにて生きるものにあらず」キリスト教の信者でなくとも一度くらいはこの言葉を耳にしたことはあるはずだ。それは、「生きるためには無駄も必要である」という意味なのだろうが、「趣味」という「無駄」は時として人生をとても豊かにしてくれる。<br />
「趣味の世界」では、生きるために必要な「必然性というプレッシャー」から解き放たれているので、人は「夢見るかのごとく柔軟に物事を考え」イメージの世界で遊ぶことが許される。例えば「オーディオ」と言う「趣味の世界」で間違いやミスを犯しても、給料は下がらないし、強く叱責されることもない。実害があるとすれば、お小遣いがちょっと減って懐が寂しくなる位のものである。逆に言うと「それくらいの実害で収まる程度」こそ「趣味」と呼べるのであって、人生の大半の時間や稼ぎをそれに突っ込むのは、もはや完全に行き過ぎであるし、周囲を気にしたり、あるいはないがしろにしながらでなければ、趣味を楽しめないという状態も、はっきり言って「異常事態」だと私には思える。<br />
人間は「イメージの世界に生きる動物」である。実世界に生きているようで、実はそうではない。世の中の大半の事柄なんて「考え方次第」で180度変化する。「難しい局面」に遭遇したとき、<span id="more-513"></span>それを「嫌なこと」と考えて避けても良いし、逆にそれを「自分を鍛える糧」と考え「自分を磨ける」と喜んでチャレンジするのも良い。要するに「人生を消極的なもの」にするのも「積極的なもの」にするのも「その人の考え方次第」だと思うのだ。<br />
「趣味」に対する考え方も全く同じであってよいと思う。否、趣味の世界では「必然性というプレッシャー」から、解き放たれているからこそ「より柔軟かつ積極的に物事を考え」て良いし、失敗を恐れず「自分の力(考え)を100％試す」ことが可能になる。意見が真っ向食い違っても「趣味の場」なら実害はない。その場で少々気まずい思いをかみしめても、「確固たる相互理解にいたるワンステップ」にすぎないと考えれば、それも「よし」とできる。「積極的」に行こう。「積極的に時間」を楽しもう。「時間」が容易く手に入る今、私たちに大切なのは「無駄」を「意義」に変える「工夫」を楽しむことのなのだから。</p>
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		<title>A&amp;V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 66号「趣味としてのオーディオ」</title>
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		<pubDate>Thu, 19 Feb 2004 04:24:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>逸品館代表　清原裕介</dc:creator>
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		<category><![CDATA[オーディオ]]></category>

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		<description><![CDATA[「五味康祐」という「オーディオ読本の著者」をご存じだろうか？　作家であり、人相学者であり、日本一と言われたオーディオフリークだった。彼がオーディオについて書き記した著書を読むと、たぶん「趣味としてのオーディオ」がすべて分 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「五味康祐」という「オーディオ読本の著者」をご存じだろうか？　作家であり、人相学者であり、日本一と言われたオーディオフリークだった。彼がオーディオについて書き記した著書を読むと、たぶん「趣味としてのオーディオ」がすべて分かる。それはすでに30年以上前に書かれたものだが、彼の言う「オーディオとのつきあい方」は現代にも全く問題なく通用するのみならず、今のオーディオ業界が失いつつある「一番大切なもの」を痛烈に思い起こさせてくれる。<br />
過去にオーディオファンは「対価を支払って価値を手に入れる」潔さを知り、メーカは「ファンの期待を裏切らない機器」の製作に全力を尽くした。顧客とメーカーは、互いに「切磋琢磨」し、ついにはオーディオを「至高」という名がふさわしいほど素晴らしい趣味に育て上げた。名機と呼ばれるオーディオ製品は、ある意味で書画骨董のような「美術品」に通じる美しいオーラを身に纏い「芸術品」と同等の価値が認められるほどの高みに上り詰めた。<br />
今のオーディオ機器に「オーラ」はあるか？求めるものに向かってまっすぐに進む心意気。負けを負けと認め、再び立ち上がる潔さ。簡単に手に入らない、簡単に真似ることの出来ない「ある種の困難さ」が「存在の価値観」を高める。そして、<span id="more-512"></span>決して「独善的」ではなく広いファン層から「尊敬」を得られてこそ、「存在」は「オーラ」が発せられるほどの「高み」に上り詰めることが出来たのだろう。<br />
本来、趣味とは「衣食住満ち足りた」後の余暇として生まれたとてつもなく「贅沢」な存在だ。逆に言えば「その贅沢」に対して「対価を支払う」ことが出来る人にこそ「趣味」は許される。ユーザーは「真似たり」・「盗んだり」してはならないし、メーカーは「騙したり」・「偽物を流通させたり」してもならない。ファン(ユーザー)とメーカーが、互いを「信頼」し「尊敬」しあう。たったそれだけのことから、たったそれだけのことで「趣味としてのオーディオ」は、再び輝きを取り戻す。「信頼」と「尊敬」この言葉の重さを理解できる人だけに、「趣味としてのオーディオ」は、その「狭き門」を開いている。</p>
<p>2004年4月　清原　裕介</p>
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