音楽を録音して再生する。この素晴らしい技術が開発されて100年が経過しました。しかし、100年前と比べてオーディオは本当に進歩したと言えるのでしょうか?
たしかに、CDプレーヤーの登場によって音楽(音楽らしきもの?)は、あらゆる所にあふれています。今や、自然の音より人工的な音や音楽を耳にする機会の方が多いくらいです。 そういう意味では、「録音-再生技術」は完全に生活の中にとけ込んだと言えるでしょう。
しかし、音楽は「趣味」や「娯楽」という側面ばかりではなく、「文化」や「学問」としての深みを持つ「芸術」です。そういう意味で、オーディオ技術は「一般大衆に芸術の素晴らしさを示唆できる音質でなくてはならない」と私は考えています。オーディオがそうあらなければ「音楽芸術」しいては「文化資産(遺産)」がダメになってしまうはずです。
再度、問題定義を行いたいと思います。
オーディオは本当に進歩したのか?
近年の真空管アンプブームは、単なる懐古趣味なのか?
アンティック系オーディオが今も高価な価格で取り引きされるのは、単なるコレクションとしてなのか?
真空管アンプを切り捨てトランジスターアンプに走った、メーカー自らがまた真空管アンプを復刻し、それが成功(売れた=支持された)のも、単なる懐古趣味なのか?
答えは私が言うまでもないと思います。「音が良い」と感じる人が多かったからです。 それは、逆に取れば「音楽を心地よく聴くためのオーディオ技術」は「ここ数十年進歩していない」証だといえるはずです。
では、「オーディオが進歩していない理由」はどこにあるのでしょうか?
それは「企業が音楽を軽視し、商業主義に終始したから」ではないでしょうか?
これから始まる文章は、「現代のオーディオ技術」に対して「重大な疑問」を投げかけると同時に、「どうすればよい音が聞けるのか?」・「音楽とはどのような芸術なのか?」非常に深い部分に疑問を投げかけています。
是非ご一読いただきまして、ご参考にしていただければ幸いです。
私達はなぜ音楽を聴くのか?
私達のまわりは音であふれています。自然の音、人工的な音、大きい音、小さい音、さまざまな音が私達の耳に入ってきます。 これほど多くの音に囲まれていながら、私達はまだ「音楽」を聴こうとするのです。それはなぜでしょう? それは「音楽を聴くと気分が良くなる」からではないでしょうか?
なぜ音楽を聴くと気分が良くなるのか?
私たちが聴く音楽には多くのジャンルがあって、人により好んで聴く音楽もさまざまですが、なぜ「音楽を聴くと気分が良くなる」のでしょう?
それは、「音」の刺激を受けた「脳」に何らかの活動の変化が起こり、その「変化」を私たちは「気分が良くなった(自分にとって好ましい)」と感じているのです。「耳」から「音」が「脳」に入り、そこにある「心」をゆさぶったのです。「気分が良くなった」のは、あなたの「心(心理的変化)」だったのです。
では「心」とはいったいどのようなものなのでしょう? それは、現代の科学でも解明されていませんし、「心」は目にも見えず「データー化して数字で表すこと」もできません。それでも、「音」は確かに「心」に直接語りかけています。ですから、「音」と「心(心理)」の関係(関連)を抜きにして「音楽」を語ることはできません。
同様に、あなたが「音楽を聴いて更に気分が良くなる」ために「良い音を出そう」とすれば、「音」と「心」の関連を考慮しなければいけないはずです。
オーディオ機器に心(ハート)はあるか?
もし、オーディオ機器の開発に際し、この「心=心理」の問題を抜きにしてしまって「数学的」、あるいは「物理学的」な発想のみを暴走させてしまえば、「音はちっとも良くならない」のでしょう。「デジタル」が「冷たい」・「つまらない」といわれるのも、「最近の機器には魅力がない」といわれるのも、「心=心理」の問題を抜きにして「単なる技術の産物」として開発された機器からは「心をゆさぶる音が出てこない」からだと思うのです。
「心」を動かして「気分を良くする」ために「音」をどのように使えばよいのか?
「心」を動かすためには「音」はどうあらねばならないのか? それらが「音響工学」や「オーディオ理論」に「欠如」している最も大切な考察ではないでしょうか?。「聴いて楽しいオーディオ機器」を設計しようと思えば、まず「机の上で学問をする前」に「音と心理の関係(関連)」について「音楽」に学ばねばなりません。ずっと昔、中世の時代より「音楽」は「音学」として確立された重要な学問の一つであり、数千年の歴史を持ち、その間厳しく探究され、練り上げられた非常に高度な「学問」だからです。「気分が良くなる音を設計」しようとする時に、「音楽」から学べる「音と心の関連にとって大切なこと」の多くは「オーディオ」から学べることより、遙かに正確かつ有効なのです。
オーディオ・メーカーの問題点
「オーディオ設計」には「電気(電子)回路技術」に関する豊富な知識が必要とされますが、それだけでは「完全な片手落ち」です。もし、設計者自身が「音質を決定=音決め」しようとするなら、設計者は、同時に「優れた音楽家」としての「教養・資質」をも身につけていなければならないはずです。
なぜなら、「オーディオの音決め」には、「測定技術」だけでは不十分で「ヒヤリングによる音質評価」が必要とされるからです。そのためには、「音楽」や「心=心理」的側面からの考察が非常に重要とされるでしょう。 もちろん、ただ一人の人間で「この条件を全て満たす」必要はありません。「チーム」・「プロジェクト」として、これらを総括できればよいのです。
しかし、現在のオーディオメーカーで「音楽家(指揮者)」をアドバイザーに加えているメーカーは、私の知る限り「皆無」です。それでは、「心(ハート)のある音の良い機器」を製品化することはできないでしょう。日本のオーディオが世界に通用しないのはそのためではないでしょうか?
口先だけで「やりました」・「できました」ということは簡単です。でも、大切なのは「本当にやったかどうか?」なのです。オーディオ業界が不況なのは「やってもしないこと」をさも「やったのように言い続け消費者を欺いた報い」であるといっても過言ではないと思います。(自戒の念を込めて)
音楽に学ぶ
今までのダイレクトメールで、言葉足らずながらもご説明申しあげたように、「音楽」とは「音を媒体とするコミュニケーション」です。では、その「コミュニケーションの方法」とはどのようなものなのでしょう?
「音」を使ってコミュニケーションを取るためには、「音」を変化させなければなりません。では、どのように「音」を変化させればコミュニケーションをとれるのでしょうか?
「ド・レ・ミ・レ・ド」という「音のつながり」を例に挙げて、それを簡単にご説明申しあげようと思います。 もちろん「簡単に説明する」といっても「実際には非常に高度で複雑な問題」ですから、「全てを鵜呑みになさったり、これが全て」などと誤解していただいては困るのです。
私自身の「音楽的知識」もたかが知れていますので、ご説明申しあげますのは「単純にヒント」であるとお考えいただくようにお断り申しあげます。
音階
ここに、「ド・レ・ミ・レ・ド」という非常に簡単な音のつながりがあるとします。「ド・レ・ミ・レ・ド」の中で、聞く人に「最も大きなインパクト」を与えるのは「最初のド」です。「無音から音が生じるとき」音程に関わらず、人に大変大きな驚き(インパクト)を与えます。
このように音が鳴ったとき「人に与えるインパクト」が「伝達する情報(驚きや安心)に対応」し、その「インパクトの変化」が「伝達する情報(感情・心理)の変化」に対応しています。「音」によりもたらされる「感情(心理)の変化」こそ、音楽の正体です。
最初の「ド」に続いて、「レ」の音が耳に入ります。この「レ」の音は比較的「音階の変化が穏やか」でそれほど大きなインパクトを与えないでしょう。しかし、この「レ」に置き換えて「もっと大きく変化する音階」を用いれば、この音楽は「導入部」においてより大きな「インパクト(意味)」を聴衆に与えるでしょう。続いて「ミ」ですが、この音は「ド・レ」に引き続いて「音程が同じ感覚で上がる」ため、「レ」よりも更にインパクト(意味)は弱くなります。
次の「レ」ですが、「ド・レ・ミ」という「音階の穏やかな上昇」に慣れた耳には「いきなり音階が下がる」ので、かなり大きなインパクトを聴衆に与えるはずです。
最後の「ド」ですが、「ミ・レ」と来て「ド」が来れば、聴衆は「当然のように安心感を持ってこのフレーズを聴き終える」はずです。従って、「最後のド」は大きなインパクト(意味)を与えません。しかし、この「ド」にかえて、「ミ」や「ファ」を持ってくると、何か不安定で気持ちの悪い終わり方となってしまうでしょう。
アクセント
今、「ド・レ・ミ・レ・ド」は「一定の強さと一定の長さで演奏されました。
次に、この「ド・レ・ミ・レ・ド」の強さを変化させて「大小のアクセント」をつけてみましょう。 「音階」で、最初の「ド」と二つ目の「レ」の「インパクト=アクセント」が強いことをご説明申しあげましたが、「音階のアクセント」と「強弱のアクセント」を「一致させる」と「相乗効果」が期待できます。
しかし、最後の「ド」の音量を「大きく」すれば、「安心しながら終わりに向かっている聴衆の気持ち」を「裏切る=驚かす」こともできるのです。このようにすることで、インパクト(意味)が弱いはずの「最後のド」に「大きな力=意味」を持たせることもできるのです。
この「アクセント」を音楽ではなく「文章の朗読」に置き換えてご説明いたしましょう。
「今ここで」という文章を考えてみましょう。もし「今」にアクセントをおけば「今」というニュアンスが強調されます。
しかし、「ここで」という部分に一番強いアクセントをおけば「ここで」が強調された結果「語意」が変化してしまうでしょう。一見同じに見える「今ここで」と、「今ここで」は明らかに違った情報を伝えているのです。
リズム
リズムにも「インパクト(意味)」があります。「ド・レ」を同じ長さで弾いた後、「ミ」を短くして「レ」にうつれば、本来「インパクトの薄かったミ」に「意外性というインパクト(意味)」を与えることができるのです。
同様に「最後のド」を長めに弾いても、大きなインパクトを聴衆に与えませんが、もし、非常に歯切れ良く短めに「ドッ」と弾けば、やはり「意外なインパクト(意味)」を「最後のド」に持たせることができるのです。
あるいは、単調な同じリズムの繰り返しの中で、一音だけをほんの少し(1/100秒でも)「早く」出せば、その一音には「他の音とは違うインパクト(意味)」を与えることができるはずです。
音色
今までにご説明申しあげた、「音階」・「アクセント」・「リズム」は、「非常に大まかに(大きな自由度を持って)は楽譜(5線譜)」に書き込まれています。
しかし、「楽器の音色の変化」は「楽譜」には記述されていません。「楽譜に書かれていない部分での音楽の解釈」は「演奏家が行わねばならないのです。
もちろん「楽器の音色の変化」も私たちの心に大きな影響を与えるでしょう。 明るい音色・暗い音色・楽しい音色・悲しい音色・さまざまな音色を演奏者(楽器)は操り、「音楽の自由度を広げたり絞り込んだり」できるのです。
音楽が内包する情報のチャンネル
「音楽」は「音」を媒介とする「コミュニケーション」であると定義しました。そして、「音の変化」に対応して、「音楽」の中には、非常に多くの情報が内包されていること(内包されている可能性)をご理解いただけると思います。
しかし、いくら「音楽の中に多くの情報(音)」が含まれていても「学習しない音は聞こえない」通りに、「全ての情報をあなた(私達)が取り出せるわけではない」ことも、ご注意いただきたいと思います。私達にはそれぞれの経験に対応する「感性のチャンネル」が開かれています。
もちろんそれは「音楽の送り手(演奏者)」にも「音楽の受け手(聴衆)」にも開かれています。しかし、「同一のチャンネルを使用」するなら「情報の受け渡しは成立」しますが、チャンネルがミスマッチをおこしていると「情報の受け渡しは成立せず」そこに、「音楽(コミュニケーション)」は成り立ちません。従って、「送り手(演奏者・作曲者)」は、持てる「全てのチャンネルを使用」して、「情報を送り出す」必要があります。そうすることで、より多くの聴衆の支持(感動の共有)を受けることができるでしょう。対応して「受け手(聴衆)」も、「自分が好む特定のチャンネル」に「自分の感性を固定せず」できるだけ「多くのチャンネルをフラット(公平)」に開けておくことが大切です。
このように、「送り手のチャンネル」と「受け手のチャンネル」が、「多く呼応」すればするほど「単位時間に伝達できる情報量は飛躍的に増大」し「非常に意味深く、有意義なコミニュケーション」が行えるでしょう。「歴史的名演奏」とは、「多くのチャンネルが開かれた演奏」に他なりません。ですから「何度聞き返し」ても、「演奏はその深さ・その意味」を失わず、それどころか聞き返す毎に「より新たな深さ(意味)」を見せてくれるのです。
しかし、オーディオ機器の選択を誤り「あなた自身の癖=特定のチャンネルに固定」した「音作り」を行えば、「名演奏が持つ深みや広がり」は大きく阻害されてしまい、場合によっては「全く意味を為さなくなる」危険性すらあるのです。私が、過敏に思われるほど「大メーカーの音作り」に対して「批判」を繰り返すのは、そういう意味なのです。「偉大な音楽家」の努力に比べれば「電気屋の自己満足」など、実に矮小で狭い世界の自己満足(マスターベーション)にしか過ぎないのですから。
得てして人間は「苦よりも楽」を選びがちですし「自己満足的快楽」におぼれるのは、楽しいものです。でも、できるだけ「外の世界(自分以外の感性)」にも、目を向けて「自己満足のみに完結」してしまうことは避けたいと思うのです。
チャンネルの融合(合成)
幾何学の1次元・2次元・3次元、という定義はご存じではないかと思います。1次元とは「直線」、2次元は「平面」、3次元は「立体」のことです。いま、「音階」を一つの「次元」と考えてみてください。音階が動かなければ「ただの直線」にしか見えませんが「音階が動けば」それは「曲線」になり意味(情報)を伝えるでしょう。
また、「リズム」や「アクセント」を、それぞれ一つの次元に対応すると考えれば、「音楽」の表現力(情報量)は、「ただの直線」から「立体(空間)」へと変化をしてゆきます。そして、その「立体(空間)」に「色」をつけるのが「音色」だと仮定しましょう。
つまり、「音階」に「リズム」(ないし「アクセント」)を融合(合成)すれば、「音楽の広がり」は「曲線」から「平面」へと飛躍的に大きくなります。そして、更に「アクセント」(リズム)を融合(合成)すれば「平面」から「立体」へと、更に大きな広がりを持たせることができるのです。
時間と空間
「すべての表現方法」に変化(ニュアンス)がなければ、「音楽」は広がりません。
しかし「表現方法」を一つ、また一つと増やして行きながら、「音楽」のもつ「情報量」を最も大きくするなら「音楽」は「立体=空間」的な広がり(動き)を持つでしょう。(ただし、ここでいう「空間の広がり」とは「単純な音の広がり」とは違いますのでご注意ください。)
それに「音色」で色をつけて・・・。やがて「音」は「時間の流れ」の中でその姿を刻々と変化させ、「まるで彫刻のような造形」を見せるようになるのです。
オーディオ機器の音質判断
「音が変化」すれば、「ニュアンス(意味)が変化」することは、当たり前のことですがその「変化の概容」はご理解いただけたのではないかと思います。
では、オーディオ機器の音質良否判断には、どのような問題が考えられるでしょう?
オーディオ機器を買い換えたり、アクセサリーを買い足したりするのは「何が目的」ですか?
当たり前のことですが「聞こえる音楽をより心地よく変えるため」です。しかし、ここでの「良い」が意味する内容は「あなたにとって心地良い」というだけで「元の音楽に近づいたか?」とは全く無関係なのです。
なぜなら、「音」が変われば「音楽の意味(ニュアンス)」が変わりますから、あなたの気づかない内に「音」の良否比較ではなく、「音楽」の良否比較にすり替わってしまうのです。このように「音楽ソース」を基準とすれば、「音の変化」によってもたらされた「意味(ニュアンス)の変化」あるいは、新たに生じた「意味(ニュアンス)」が、「あなた自身の好みに合うかどうか?」をあなたは判断しているに過ぎなくなってしまい、そのような「好き嫌いの基準」で「音」を判断し続ければ、「音楽(演奏)」自体にあなたの「癖(解釈)」を付加(反映)することになり、音楽の広がりは閉ざされてしまうでしょう。
しかし、「単なる音だけの比較」あるいは「音の関係のみの比較」を正確に行うことができれば、「音楽の精度」は保たれます。同時に「音楽の持つ広がり」も阻害されることはありません。もし「ある音の判断」に「個人差」が生じ、結果が異なったとしても、それは「あなた(人それぞれ)の聞こえ方の個性」であり、やはり「音楽そのものの意味」を改編したり、損なうことはないはずです。
音の向こう側にある意味
「音楽の真実」。はたして、そんなものがあるのでしょうか?
もし、「音楽に真実」があるとするなら、それは「音の中」にあるのではなく、「音の向こう側にある意味」にあるのではないでしょうか?
例えば演奏を行うとき、演奏者は「楽譜(5線譜)」を見て演奏を行いますが、そこに書かれているのは「非常に大雑把(曖昧)」な「音」の出し方でしかありません。 実際の演奏に際して、演奏者は「正しく楽譜の向こう側の意味を理解」しなければなりません。そして「その正しい解釈」に基づいて演奏を行わねば、「音楽の真実」は伝わらないのです。 再び、「文章の朗読」に例えるなら、「ある物語が示唆する内容」を深く理解した語り部が、聴衆にわかりやすい言葉に「翻訳(解釈)」して伝えることと、「音楽の演奏」は、全く同一であるといえるでしょう。
ですから「同一の楽譜」を演奏するときに、「全く同じ演奏」である必要はありませんし、「聴衆」や「演奏者の環境(コンサートホールの音響)」などに、合わせ、あえて「許される範囲で逸脱」しなければいけないこともあるでしょう。 そこが「音楽の面白さ」であり「どんなに高性能なコンピューターに自動演奏」のプログラムを行ったとしても、そこから「音楽の真実」は伝わってはこないのです。
そして、あえて言わせていただくなら「オーディオ機器の音を作る(あなたが判断しながら音を変えて行く)」時にも、演奏者が楽譜を見て音を作る(音楽を組み立てる)場合と「全く同じことが当てはまる」のです。「経験不足」の設計者やアドバイザーが「いい加減な思いこみで音を作れば」結果は火を見るより明らかです。
心を科学する
先ほど「心は目に見えない」と申しあげましたが、「音」と「目に見えない心」の関係を「定量的に観察、分析」し、データ化して「科学」として確立するにはどのようにすればよいのでしょうか?
たしかに「心」は目に見えませんが、「音に対応する脳(心)の反応」なら「音」という「刺激」を与えた結果顕れる「体の反応」をデータとして集めれば、定量的に利用することができるでしょう。そのデーターに基づいて「音」を考えれば、人間の「音」に対する「感度」がわかるはずです。
しかし、そのためにはどのような「外的要因」により「脳が刺激されているのか?」をきちんと把握し、「音以外の条件は厳密に同一」に保たれた環境下でのテストをおこなわねばならないはずです。更にもう一つ、絶対見逃せない重要なポイントは、「音に対する脳の反応」は、「必ずしも全て自覚できているものではない」という点です。音に対する体の反応は「意識」とは無関係に引き起こされ、人間は自分の「脳(心)の動き」を全て自覚できているわけではないのです。
むしろ、それよりも「無意識に反応している部分」がより大きいと考えられますから、「ある音」を聞かせて「聞こえましたか?」というテストは「科学的には、意味のない非常に精度の低いテスト」なのです。 当然、このような「大雑把な観点」から「企業(技術者)の論理」によってこじつけられ決定された、現在の「CDのフォーマット」に矛盾が生じた結果、今更のように「現在のハードウェアーの技術水準では実現不可能(十分な指向性の広さを持って100KHzまで正確に収録できるマイクの振動板の設計は不可能)」な「スーパーCDのフォーマット」を持ち出すなど、ハッキリ言って「笑止千万」、人を馬鹿にするのもほどがあります。
そこには「反省」など全く見られず、科学性の欠片も感じられません。感じられるのは「利益至上主義」の「企業のエゴ」です。そんな「浅はかな考え」では、とうてい「良い音楽」を再生する装置など設計できません。「音楽」を商売道具としてではなく、「人生のパートナー」と考えるなら、製造メーカーには「猛省」を促したいと思います。
環境に左右される心
音楽だけではなく、私たちは日によって「気分がいい」とか「気分が悪い」と感じています。先ほど「心」は「脳」の中にあると申しあげましたが、「脳」は単なる「情報処理コンピュータ」であって、それ自身は何も感じていません。「5感」という「センサー」からの「信号(情報)」が「脳」に届き、それらを受け取ったとき初めて「脳=心」は「なにか」を感じているのです。
つまり、私たちの「心」は「5感から得られる情報」=「環境」的な要素と、「経験(記憶)」による「個人」的な二つの要素に左右(支配)されているのです。「5感」とは、「視覚」・「聴覚」・「味覚」・「触覚」・「嗅覚」のことを示します。従って「音楽を聴いて気持ちよくなる」といっても、そこには「音」だけではなく、「リスナーを取り巻くさまざまな環境の要素」が影響しているのです。
例えば、「部屋の照明」、「壁紙の色」、「リスニングチェアーの肌触り」、「香り」、ETC...。 さらに、「その日の個人的なコンディション」が影響をあたえます。「オーディオ機器のデザインや価格」なども、「個人的な要素」に含まれますし、「嬉しいことがあった日」や「嫌なことがあった日」、「特定のシーンと関連して記憶されている音楽」など、「精神的な要因」、それらが全て「密接に関連」しあって、私たちの「心」を動かしているのです。
音はどのように心に影響しているか?
では、「音」はどのように「心」に影響しているのでしょう?
もちろん「5感」の中で「音」だけを採りあげても不十分で、「5感の全て」を統合し「心」に与える影響を考察できれば理想的なことは、すでにご説明申しあげた通りですが、それではあまりにも問題は複雑になりすぎます。それなら「音=聴覚」以外の要素は「できるだけ同一」にして「音だけ」が「心」に与える影響を考察しなければいけません。
しかし、たったこれだけのことすら「考慮されていない」のが「オーディオにおける聞き分けテスト」の「実施例」です。問題はもっと深く繊細であるにもかかわらず、「彼らが挙げる実例」は「あまりにも粗雑」で信用できかねます。オーディオ・メーカーがおこなっているヒヤリング・テストを「科学的」などとは口が裂けても言って欲しくはないものです。いい加減な機器の選択(ほとんどの場合自社製品で統一されている)粗雑なセッティング(私たちが行っている精密さとはほど遠い)、ルームアコースティック(ほとんどの場合未調整)に至るまで我々が通常おこなっているような、繊細さ、綿密さなど全く感じられない「粗雑なテストの結果」を「大上段に振りかざす」などという「愚行」はいい加減にやめて欲しいと思います。
一つ例を挙げましょう。「CDには20KHz以上の音が含まれていないので、脳波にα波がでない(気持ちよくならない)」という「迷信」です。CDプレーヤーや再生機器によってCDソフトの音が変わるのは、オーディオマニアなら誰でも知っている当たり前の事実です。同時に、「機械の選び方によっては心地よく聴けない場合もある」から、私達は「心地よく聴けるようオーディオ機器を買い換える」訳なのです。それを「CDは全てダメ」などと「悪者扱いする」などは「完全にマスコミの暴走(ゴシップ)」以外の何物でもないはずです。再三再四、「CDの音には疑問がある」という内容の記事を掲載し続けた「朝日新聞」・「科学朝日(廃刊)」(それ以外の著書にも多数)の誤りを指摘したいと思います。
また、我々オーディオ業界から何度となく「記事の内容に関する疑問」が寄せられていながら「全くの無反応(無反省)」を貫き通したことにも大きな憤りを感じます。いくら「直接生命に関わらない」からといって、「真実に蓋をしたり」、「真実を全く見極めようとせず」に的はずれの開発(ゴシップ記事)のみを「営利目的」に暴走さるのはやめて欲しいのです。営利目的に「音楽」を「娯楽」とすり替えてしまったあげくが、「現在の音楽の空洞化」なのです。その責任はもちろん「ハード・メーカー」だけではなく「ソフト・メーカー」にもありますが、その両者を統合して有する会社の責任は最も重いと指摘せねばならないでしょう。
「音楽空洞化」・「芸術の空洞化」は、「文化の空洞化」を引き起こします。「世の中がすさんできた」といわれる最も大きな理由の一つは、「企業が文化をなおざり」にして「利潤」のみを追求しすぎた歪みです。それが環境に現れれば「公害」や「環境汚染」として目に見える形になりますが、「文化汚染」は目に見えないので、問題はもっと深刻です。そのうえ「間違いを堂々と公言」してはばからない傲慢さには憤りを感じるばかりです。手に入る全ての「音楽」が「真に芸術的であればよい」などとは思いません。冒頭にお話ししたように「音楽にはさまざまなジャンル」があってしかるべきです。
しかし、オーディオ機器の音楽性の乏しさ故に、「素晴らしい音楽」が評価される以前に「聞き逃されてしまう」ようなことだけは避けねば、本当に「音楽が空洞化」してしまうのではないでしょうか?
ここに、一冊の本があります。「右脳と左脳(脳センサーで探る意識化の世界)/角田忠信著/小学館発行」それは、信頼するに足る精度でおこなわれた「脳(心)と音の関連」についての精密なテスト結果です。それは「音(音楽)を歪ませないオーディオ装置」や「リスニングルーム」の考察に非常に役立つ内容となっていますので、やや難解だと思いますが一読されることをおすすめいたします。
音と脳の関連
話が大幅にそれてしまいましたが、その文献から必要だと思われる内容を抜粋させていただきましょう。人間の脳は「左脳と右脳」の二つの部位に分かれ、それらを「脳幹」がつないでいるといった構造になっています。一般的に「左脳」は「デジタル脳」と呼ばれ、「数値計算」や「言語」を司り、対して「右脳」は「アナログ脳」と呼ばれ「音楽」等の芸術や「曖昧な事象」を処理していることがすでに立証されています。(例外的に左右が逆の働きをする人もいます)
また、「左脳」は「右半身」の器官を、「右脳」は「左半身」の器官とつながっていることも知られています。「左耳」から入った音(聞こえた音)は「右脳=音楽脳」に「右耳」からの音は「左脳=言語脳」に入っているのです。 「右脳にはいるか左脳にはいるか?」その振り分けは、先ほどお話しした「脳幹」がスイッチの役割を果たしています。そこで、「ある音」をヘッドホンで被験者に聞かせ「右脳か左脳」どちらの脳の働きに影響を与えるかを調べれば、「脳幹のスイッチ」が「その音」を「右脳」か「左脳」のいずれの脳に振り分けたかがわかるのです。
このテストを行うと、通常我々人類は「楽器の音」はすべて「右脳」に入り、「環境の音=水の音/鳥の声/虫の鳴き声」も同じように「右脳」に入るのが普通なのですが、「日本人(ポリネシア人の一部)」だけが、非常に特異に「邦楽器の音」と「環境の音」は全て「左脳」に入っているのです。そのため日本人の、脳内部での情報処理は「著しく左脳に偏ってしまう」ため、「左脳」と「右脳」の「バランス」が大きく崩れています。「音楽」を聴くことで「右脳」を活動させることができますから、この「バランス」を保つために「音楽」を聴くことは、日本人にとっては特に良いことなのです。
しかし、本来なら「右脳」にはいるべき「西洋楽器の音」に「一定の歪み」を加えると「左脳」に入ってしまうことが指摘されています。 この「脳幹のスイッチ」は「無意識下において音の行く先を選択している」のですが、「音に歪が加わる」とこのスイッチが誤動作してしまうのです。 「スイッチが誤動作する」ということは、つまり「あなたの気づかない間に音楽の内容がすり替わる」ということを意味します。「いい加減な音のオーディオ機器」や「癖の強いオーディオ機器」の音質は、「音楽を正確に伝えない=音楽を作り替えてしまう」ことは科学的にも立証されていると言えるでしょう。
この研究結果には「脳のスイッチの精度」を調べる実験結果も合わせて掲載されています。一定の音波を聴かせるタイミングを変化させて、「無意識下でおきる脳の反応テスト結果」では、驚くべきことに「1/10000(0.0001)Hz)の違い」をきちんと識別していること、さらに「1/10000(0.0001)秒」にタイミングの違いにも正確に反応することが確認されています。 あなたが聞き逃しているかも知れない、「ほんの少しの変化」ですら「脳のスイッチ」を切り替えて「音=音楽」が「心」に与える変化(感動)に「非常に大きな影響を与えている」可能性が大きいのです。
さらに、音量差が100-1000倍(40-60dB)あったとしても、小さな音が大きな音より「優先的に聞こえている」ことがこのテストでは立証されています。人間のハードウェアーにこれだけの性能があるなら、当然「今までのオーディオ理論」には「重大な欠陥(見落とし)がある」と考えなければならないでしょう。そして「オーディオ理論」や「オーディオ評論」・「マニアの噂」の中で「数字を根拠にあげている話」がどれほど信用できないか? をご理解いただけると思います。「データー」の有効性の検証を怠り、「自分たちに都合がいいようにデーターを利用して作り上げた理論」や「そのデーターに基づく話」など、全く無意味で「科学的な根拠など全くない迷信」なのですから。
全体への影響
今回のダイレクトメールでは、「音と心理(感動)の関係(関連)」について、簡単な「音のつながり」例に挙げてご説明いたしました。
「そこ(音楽)」から学べる「音と心理(感動)の関連につきましては「自覚できる=意識して感じることが可能」な「音の変化」でした。
今回は更に、「自覚できない=無意識下」での「音と脳の反射の関連性」についての「精度の高さ」が、驚くほど高い(細かい)ことをご説明申しあげました。では、実際の「演奏会」では、演奏者はどのように音をとらえているのでしょう?演奏者は、楽器を鳴らすときに「全ての音を意識して出しているのでしょうか?」
結論から申しあげるなら、「答えはノーです」。演奏家は、演奏に際し「楽譜を読み」音楽全体の組立(構造)を把握し、その後に「楽器から実際に音を出しながら音楽を確認」して行くのだと思います。そのときには、「意識して出している音」と「無意識に出している音」の両方が存在するはずです。ある著名な音楽家は、「コンサートは音楽を組み立てる壮大な実験である」と言う言葉を残していますが、それは「実際に演奏しなければ分からないことがある」という意味ではないかと思うのです。
また、カザルスは「鳥がさえずるように楽器をならしなさい」・「もっと楽器を謳わせなさい」と言ったそうですが、その主旨は「意識=無駄な心の力」を抜いて「無意識=本人がそれと気づかないほど自然な心の動き」に演奏を委ねなさい。という意味ではないかと思うのです。そして実は、「そういう演奏者自身も意識していないほどに小さな音の変化」が「音楽の全体像に大きな影響」を与えているのです。
優れた音楽家ほど、「意識して出す音」より「無意識に出している音(無駄な力の入らない音)」が占める割合が多くなり、その結果として「自己の癖(エゴイズム)を排除した、本当の意味での自然な個性(自分でも意識できないほどの素直な自分自身)」が演奏に反映(発見)されるのではないのでしょうか?
オーディオ機器の音質判断
オーディオ機器の選択やセッティングは「必ず自分自身で聴いてみて決める」ということが最も大切なのです。しかし、すべての決定を自分自身で行うよりも、「素直に専門家のアドバイスを受け入れる(聞こえる人に判断を委ねる)」方が「音が良くなる=上達」するのはずっと早くなるでしょう。自分のステレオの音を良くしようとお考えなら、まず「雑誌(人の評価)を過信しない」こと「自分で聴いてみる」こと、最後に「信頼できるアドバイザーを見つける」この三点を最重要視してください。ポイントをまとめてみましょう。
第1には、私たち人間には現在のオーディオ理論が示しているような音の聞こえ方をしているのではなく、オーディオ理論が記述しているのは、私たちが聴いたり、感じたりしている「音のごく一部」であって、もっと「より大切(重要)な部分が大幅に欠如」していることが「科学的に立証できうる」ということ。
第2には、「自分が聞こえていると感じている音」以外にも、もっと音は脳に届いていて、その「無意識に受け取っている音(聞こえない音)」も「脳(心)」には大きな影響を与えているということ。
この二つの観点から導き出される結論は、驚くほど簡単です。オーディオ機器の選択やセッティングは「聴きながら行う以外に有効な手段(方法)がない」にも関わらず、きちんとした聞き分けのトレーニングをつんでいないなら「何も聞こえてはこない」ということなのです。 もしあなたが、「自分の耳」でオーディオ機器のセッティングを煮詰めようとお考えなら、「自分自身の耳をトレーニングする」ことを怠ってはなりません。同時に「音楽」から、「音と心の対応」について学ばねばなりません。
しかし、そんな恵まれた環境でのトレーニングを経験できた人はそう多くはないはずです。ならば観点を180度変えて「聞いたことがある音」だけを「聞き分けテストの基準音=リファレンス」に用いればよいのではありませんか?それは「環境の音」。例えば「ライブの拍手」や「咳の音」、車の音、電車の音、ETC...。「生で聴いたことがない楽器の音」は、正しい指標にはならないのです。そのような音楽ソフトをリファレンスに用いれば、それはただ「そのソフトがうまく再生できたかどうか?」という判断にしかならず、「普遍性=正確性」を持たないテストでしかありえません。もちろん、「聞こえ方」には個人差がありますから、装置の音に「使い手(持ち主)の個性」が反映されるのは当たり前です。
しかし、個性なら「音楽そのもの」を損ねることはありませんが、その固有の色づけが「個性」ではなく「癖」であった場合は、話は違ってくるのです。 一見、「個性」と「癖」は同じように考えられがちですが、「癖」を全て取り去ったとき初めて「個性」が見えてくると申しあげればご理解いただけるでしょうか? 「癖」という色づけのある装置で「音楽」を再生した場合には、「作曲者や音楽家の意図」は非常に見えづらくなってしまいます。そういった装置が再生する音楽は「使い手(あなた自身)のエゴ」によって「再編成=編曲」された音楽になりかねないからです。従って、このような「癖の強い音」でさまざまな音楽を聴いても、あなたの感性は「あなたの内側に向かって細分化して行く」だけで、決して「外側に開かれて豊かになる」ことはないのです。もし、あなたが「判断を他人に任せて(委ねて)しまったらそこに自分の個性(好き嫌い)がなくなってしまうじゃないか!」とお考えなら心配はいりません。 「個人的な思い入れ=癖」を取り去ったときに、初めてそこに「あなた自身の個性」が見えてくるはずなのです。そこに見えてくる「あなたの個性」とは。まだあなた自身ですら気づかなかった「本当の自分」なのかも知れません。自分の収入で自分の好きな物を買うわけですから、その判断は、ただ「気に入ったか否か?を基準とすればよい」といってしまえばそれまでです。
しかし「音」や「音楽」は、少しくらい自分の好みと違っても、聞き込んで行く内に「自分が変わってくる(成長できる)」こともあるはずですから、やはり「音」や「音楽」全般について、もっと勉強しておく方が良さそうではありませんか?
深く静かな集中へ
私は車が好きで、サーキットを走ったこともあります。もし、サーキットを速く走ろうとすれば、まず「正しい走行ラインをきちんとイメージ」しなければいけません。そして、実際に車を走らせながら「5感」から送られてくる「情報」に対する「素早くかつ正確な判断」を行って行動に移さねばなりません。そういう緊迫した状況下では、外から見る激しさとは正反対に「心は驚くほど静か」であることに気づくことがあります。
同様の「感覚」は「良い音楽(名演奏)を聴いている」時にも経験するのですが、それは、「5感」からもたらされる刺激が、「ある一定の情報量を超えた時」に起こるのだと感じています。 よけいなことを考えず「深く静かな集中」に入らなければ「情報量が多く対処しきれなくなる」ためであろうと思うのです。そして、このような「深く静かな集中」を経験した後では「何か意識が組み変わったようにハッキリする」ような感覚を感じることがありますが、時には体をしっかり動かして、ストレスを発散するために「スポーツ」をするように「良い音楽を聴く」ことは「心のストレス」を効果的に発散してくれるのだと思います。
あとがき
私はよく音楽を聴くことを料理を味わうことに例えて説明するのですが、音楽が料理だとすればリスニングルームは「食卓やダイニングルーム」、オーディオ機器のデザインやブランドは「食器」に例えられると思うのです。あくまでも「主役」は「料理」なのですが、良くできた「脇役」なら「主役」を引き立てるでしょう。しかし、「主役」をなおざりにして「脇役」だけに目を奪われるようなことは避けたいものです。あるいは、人が並んでいるから「おいしいお店だろう」とか「雑誌で紹介されたから」とか、人の評価があまり当てにならない所なども共通点は多いと思うのです。
おいしい料理を食べるためにレストランに入ったとします。
あなたは「出された料理」に、すぐ塩や胡椒、ソースなどの調味料を振りかけますか?
そんなことをすれば「そのお店の本当の味」は分からなくなってしまうでしょう。また「味の素」のような合成調味料は、「料理をおいしく見せかけ」ますが「素材本来の味を損ねて」しまうのです。このように、「本当のおいしい料理」と「本当によい音楽」にも共通点が多いと思います。 「食通」になろうとおもえば「高い料理」を食べるのではなく、「本当においしい旬の食べ物」を知る必要がありますが、「まさに音楽にも同じことが当てはまる」のです。パソコンで簡単に作られた音楽(小室ミュージック)だけを聴きつづけても「本物の料理の味(本当の音楽の良さ・すごさ)」は分かりません。 また、著名な演奏家(有名なレストラン)が良い(おいしい)とは限りません。「料理(音楽)」を良く知る人に「おいしいお店(良心的な演奏家・良いソフト)」を紹介してもらうことが一番良いと思います。 いろいろなことをくどくどと説明申しあげましたが、「おいしい料理」が「体を健康」にするように、「良い音楽」は「心を健康」にしてくれるでしょう。しかし、誤った「音楽」や「オーディオ機器」を選択すれば、知らない間にあなたの心はむしばまれて行くかも知れないのです。
文責 逸品館/代表取締役 清原 裕介