現在のオーディオを取り巻く問題点

オーディオのそもそもの原点

20世紀に私達は、音声を記録しそれを「望むときに、望む場所で再現する方法」、いわゆる「オーディオ」を実用化しました。発明当初は、ただ音楽を聴くための「手段」に過ぎなかったはずのオーディオですが、たゆまざる技術革新が続けられた結果、20世紀後半には「音楽を聴く」という語意がコンサートへ行くことではなく、「録音された音楽を聴く」という意味に変えてしまうほどの大きな改革を私達と音楽の関わりにもたらしました。
オーディオは、当初の目的であった「演奏の再演」という枠を超えて音楽鑑賞のありかたに大きな影響を与え、ついには「オーディオ(ステレオ)で聴く音楽」が「生演奏」を越える文化に育ったのです。このように「発達した技術が旧来の文化と融合し、新たな文化を生みだす現象」は、20世紀以降特に顕著に感じられます。

オーディオの原点

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演奏→ 録音→ 配布→ 再生→ 再演奏

電気的に音を作り、電気的に楽器の音量を増幅する技術が進歩した結果、POPSやフュージョンなどのように「どこまでが生演奏で、どこからが再生音楽なのか?」その区別が難しい音楽すら生みだされています。また、今後どれほどオーディオが進歩しても、完璧に「生演奏を再現する」事は不可能です。しかし、それでもオーディオのそもそもの原点は、録音再生というプロセスを経ても「演奏や奏者のメッセージをできるだけ損なわず伝える」ということが紛れもない事実なのです。

現在のオーディオを取り巻く状況には多くの問題がある

歴史に名を留めるような音楽家達は、一生の大半を音楽に捧げ、「しかるべき師に師事して深く音楽を学び」血のにじむような努力を重ねてやっとその高みに辿り着きました。そんな偉大な芸術を「音を媒介として広く世界に伝えよう」とするオーディオ機器の音作りには、当然それと同じくらいの責任があってしかるべきだと思います。
しかし、残念ながら「音楽のプロフェッショナルとしてのトレーニング(学習)を経験していない者」が、この業界では幅を利かせ過ぎているようです。オーディオ業界のみならず音楽業界ですら、音楽的な責任よりも金儲けの方が優先されるのが現実です。「音楽という芸術の深さと重さ」を十分に理解し、音楽芸術という文化の一端を担う自覚があるなら、自信を持てない製品(演奏)を世に送り出したり、金のために魂(気持ちの入っていない製品や演奏)を売るようなことは止めて欲しいと思います。
綺麗事ばかりで生きて行けるわけではありませんが、無垢な気持ちで音楽やよい音を求めるお客様を「新技術(新製品)の実験台」にしたり、金儲けのための食い物にしていいはずがありません。業界全体に「音楽に我が身を捧げる」という強い情熱が見られず売上優先の風潮が蔓延しています。新聞・雑誌などの有力メディアですら、間違った問題提議や解決方法・意味のない風評を煽り立て、消費者を惑わせる有様です。

自己流のオーディオを続ける時に、是非注意して欲しいこと

確かにたとえそれが最良の方法でなくても、雑誌やオーディオショップが薦めるままアクセサリーや装置を買い替え、音が良くなったと納得できれば、それでオーディオは十分楽しいものです。もちろん、そういう「オーディオのあり方」や楽しみを否定するつもりはさらさらありませんが、「そういう楽しみ方」が高じて「技術(音を変える手段)そのものを楽しみ始める」と危険です。
音が良くなったかどうかの判断には、必ず「音楽を再生」して判断します。しかし、もっぱらオーディオでしか音楽を聴かず、演奏会へも行かなければ、自分が鳴らしている「演奏(音楽)の善し悪し」を判断できるようにはなりません。厳しい言い方をすれば音楽的教養を積まなければ、決して「フェアな音」は出せないし、音楽の良否を判断できるほどの「フェアな見識」は、本格的な厳しい勉強(トレーニング)をしなければ、なかなか育たないのです。
装置を何度も買い替え、セッティングを煮詰めて音が良くなるごとに、「自分が音を良くした結果、より音楽が正しく再現されている」という勘違いが起きることが恐いのです。オーディオ歴で音楽を聴いている時間が長いだけで「演奏(音楽)の善し悪し」を判断できているという誤解(過信)が生まれるのが問題なのです。そうなるとオーディオ(音)は、同道巡りになってしまってそこから全く進歩しなくなります。自分の出している音を基準に何の疑問も持たず「それがその奏者の演奏である」と誤解しないで欲しいのです。「好き」と「良い」とでは基準が違います。
人は皆、自分に溺れれば視野が狭くなり、簡単な違いにすら気づけなくなります。どんな趣味、どんなスポーツでもそうですが「最初に正しい目的」をしっかり学ばず我流を続けると、ゴールへたどり着けなかったり遠回りになってしまいます。

技術者はもっと真摯に音楽を学んで欲しい

我流を続けて趣味としてのゴールにたどり着けないのは勝手ですが、そういう好き嫌いと善し悪しの区別を勘違いしている技術者や、フェアな見識を持たない評論家が自分達の思いこみで機器や音楽の評価を説くのは感心しません。権威ある立場の人が間違ったことをいっても、多くのユーザーはその論評をそのまま受け入れてしまうからです。悪意はなくともそれは「音楽文化の冒涜」に値するとんでもない行為(重罪)です。「著名な新聞や雑誌の記者や評論家、大メーカーのエンジニア」などに課せられる「責任」は、一般ユーザーのそれとは較べものにならないほど重いのです。
もし、彼らが「無責任に自己中心的な音の評価」を続けるなら、彼らの作る製品や雑誌は「大衆の心に広く深い感動を与えられる」ことなく彼らの作る製品(雑誌)は売れなくなり、ついには誰も見向きすらしなくなるでしょう。下手をすると音楽文化を衰退させてしまいかねません。将来それが現実となったなら、それはすべて「オーディオ技術の目的(オーディオのそもそもの原点)を見失った事」が原因です。オーディオ技術の目的は「音楽を正しく伝えること」で意味のない新技術の実験場でも、オカルト的な技術を競い合う場でもないのです。業界関係者は、もう一度自分自身の胸に手を当てて、深く反省すべきだと思います。
ずいぶん強い口調で責め立てていますが、自分自身も大同小異。この文章は、「自分に宛ての反省文」と読み流してください。しかし、趣味としてオーディオを通じ音楽を見極めようと志されるなら、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の心境で、日々音楽に学ぶ事を忘れないようにしたいものです。所詮オーディオなんて、音楽に較べれば、未だ実に浅い文化でしかないのですから。

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