前号では、主に録音という「ハード面=機器側」からの問題点を取りあげ、「音の精度や純度を高めれば=音楽の再現性がより高まるという考え方はオーディオに通用しない」という自説を展開いたしました。今号では、「ソフト面=人間側」からみても同じ結果になるという私の考え方を説明いたします。
まず、音楽を聴く(音を聞くのではないことに注意)ということがどういう事なのか?私は、次のように考えます。「静けさや 岩に滲み入る 蝉の声」という有名な芭蕉の句があります。この句で芭蕉が表現したかったのは「静けさ」です。その「静けさ」をより「深く表現する」あるいは「的確に伝える」ために、あえて「無音」ではなく、正反対とも言えるうるさい「蝉の声」を使っているのがこの句の「真髄」ですが、この句から「芭蕉が意図した静けさ=芭蕉が表現、伝えようとした風景」を「読み取る、感じ取る」ためには「蝉の声」と蝉が鳴いている「日本の夏の風景」を知らねばなりません。もし、あなたが「蝉」を知らなければ、この句は意味をなさないでしょうし、さらに言うなら「岩に滲み入る 蝉の声」という文章の「深さを想像」できなければ、やはりこの句の「本当の良さ」は伝わりません。
分析を進めましょう。この句は「静けさ」・「岩」・「滲み入る」・「蝉の声」という、それ自体では深い意味を持たないたった4個の単語が「定められた規則」、あるいは「意図(計算)された順序」に並べ替えられることで、初めて「深い意味」が与えられているのです。つまり、この「句」の重要なポイントは「全体の構成(流れ)」であって、その「個々のパーツ」ではありません。この句の意味を深く理解しようとすれば「単語」一つ一つよりも「全体の流れ」に注目すべきです。そしてこの句が表現する「静けさ」という事象をどのように把握するか?あるいは想像するか?それはすべて「句を詠んだ芭蕉の力」ではなく「句を読むあなたの創造力の豊かさ」にゆだねられているのです。芭蕉は「静けさ」を彼なりの「表現(言葉)」に置き換えただけです。この時点では、彼の「句には命がなく」単純な文字の羅列にしか過ぎません。この文字の羅列から「何を想像するか?」その「創造力」が彼の句に「命を与える」のです。「命」を与えるのは、「あなた自身」であって句を読んだ芭蕉でも、それが書かれた色紙でも、色紙に文字を書いた人でもないのです。芸術に「命(価値)」を与えるのは「あなた自身(あなたの感性)」なのです。
私が何を言いたいか、伝えたいか、勘の鋭い人ならすでにおわかりだと思います。まだ私も問題の端っこにたどり着いただけで、完全に解明できるはずのない、そして永遠に解明できるはずのない「芸術」という、素晴らしい「曖昧さに満ちた世界」を「説明文」という色気のない「固定概念に満ちた不完全な文字」に置き換えて無理矢理説明するのは、私の理解力や文章力では到底不可能なことです。すでに私が何を言いたいかおわかりならこの先をお読みにならない方が良いかもしれません。しかし、難問?を投げかけただけで、解決のヒントすら与えないというのはあまりにも残酷ですから、私にできる範囲内で考え方や感じ方を書いてみたいと思います。
芭蕉の「俳句」という「文字」から「芸術」を読み取る、あるいは感じ取る方法と「演奏」という「音」から「芸術」を聴き取る、あるいは感じ取る方法にはいくつかの明確な違いがあります。一番大きな違いは、それぞれを構成している最小単位(いわば原子とよべるもの)が「言語」か「音」であるという違いです。私たちは意識せずに「日本語」を話しますが、それは生まれ育った環境で「日本語を身につけた」からであって、生まれながらに日本語を理解できたわけではありません。「言語」は、教育によって身に付くものであり、生まれたときには「白紙」の状態です。これに対し「音」に対する反応(感性)は、生まれながらにして身に付いています。DNAに刻まれている?と言うほうが正確なのかも知れませんが「心地よい」と感じる音は、老若男女、人種を問わず全人類にほぼ共通しています。「不快」と感じる音も同じです。もう少し掘り下げましょう。「言葉」を持つのは人類だけであると言われていますが、では動物はどのようにして「コミュニケーション」をしているのでしょう?それは「うなり声や鳴き声」です。動物たちは「うなり声」という「音」でコミュニケーションをするのです。私たちも
普段は気に留めませんが「音によるコミュニケーション」を様々なところで行っています。例えば、「車のクラクションの音」は操作パネルの「文字」とは違い、輸出先の国によって細かく変えられることはありません。「危険を知らせる音」は、全人類に共通の「コミュニケーション」として、国境や人種とは無関係に「成立」するからです。
このように言語と異なり音は、「万国共通のコミュニケーション」です。しかし、万能ではありません。「音楽」は、人間の「気持ち」や「感動」という非常に曖昧で「量的に計ったり」、あるいは「言語に正確に変換できない心の動き(言葉に換えられない感動)」を伝えるには適していますが、「数量」、「契約」という「明確な事項(明確に定められた概念)」を迅速かつ明確に伝えることができません。また、それらを「正確に保存(記録)」することも不可能です。これが「言語」と「音楽」の明確な違いです。言い換えれば、「言語」は、「固定された明確な概念を正確に伝達できる=デジタル的な」特異性を確立するために「曖昧なものを曖昧なまま伝える=明確化できない概念をそのまま伝える」という部分を切り捨てているのです。そういう「デジタル的な伝達しかできない言語」にすら「俳句」のような「芸術性を与えた」人類の創造力は驚くべきものですが、
「心のコミュニケート」という「情報伝達」をに限定した場合、「デジタル的伝達」しかできない「言語」は「アナログ的伝達」が可能な「音楽」にくらべて、圧倒的に不利なのは否めません。だから我々は、「言語」が発達した今でも「音楽」という「アナログ的伝達手段」を残しているのでしょう。
ここまでの説明で「音楽」は、「数量」、「契約」といった「明確な事項」ではなく「心の動き」という「曖昧なもの」を伝えるための「手段」だということはご理解いただけたと思います。次に「音楽が伝えるべきもの」あるいは「音楽の真の目的」を考えましょう。逆説的に言えば、「心」を伝えるために「音楽」は生み出されたのですから、音楽の伝えるべきものが「人の心」だということに異論はないはずです。では「音楽の真の目的」とはなんでしょう?もし、人類が自分の心を他人に伝える必要がなければ「音楽」は生まれなかったはずです。では、なぜ人類は「他の人に自分の心を伝える必要」があったのでしょう?それこそが「音楽の真の目的」の答えとなるはずです。
それについて、私は次のように考えています。私たちの「喜怒哀楽」は、自分自身の心の中から突然生まれるのではなく、感情は他の人間の存在や他の生物の存在によって生み出されます。もし、地球上に生き物があなたしかいなかったらどうでしょう?数日?あるいは数週間の内に、あなたは「寂しさに耐えきれなくなって」死んでしまうかもしれません。人間は、「一人では寂しい」つまり「他の人の存在を確認したい」生き物なのです。「喜び」・「怒り」・「悲しみ」・「楽しみ」、それらのあらゆる「感情」は、あなたの中にあるのではなく「他の生き物を通じてその存在を確認すること」で生みだされ、あなたという存在は、「他の生物の存在を確認すること(他の生物との共存を確認すること)」で初めて成り立っているのです。話をまとめましょう。音楽は、人類が「集団」の中で「特定の心の動き」を素早く伝達するために生み出され、その「伝達の最終目的(音楽の真の目的)」は、特定の心の動きをできるだけ早く、できるだけ多く、他人と「共有すること(分かち合うこと)」がふさわしいと思います。
オーディオで音楽を聴く目的もまったく同じです。オーディオシステムから流れる「音楽」を聴いて、どれだけ多くの「想い」に心を馳せることができるか?その「音楽」が作られ、演奏された背景から「何を感じ」、「何を共有する」ことができるのか?それこそがあなたの聴く「音楽の価値」であって、それ以上でも以下でもありません。「音楽」から切り離された状態で「音」だけを聞き、その善し悪しに一喜一憂するのは「音楽を聴く」という目的とはまったく異なる行為です。オーディオシステムの音質改善をお考えなら、この点には十分に注意して欲しいと思います。
私の尊敬する指揮者の一人である「セルジゥ・チェリビダッケ」は、録音を嫌ったことで有名でした。彼の生前、彼の演奏は「一切の録音」が許されなかったほどです。それは、録音-再生という一連の「変換」によって「彼が意図する音楽、あるいは演奏が正確に伝わらなくなる=作り替えられてしまうこと」を極端に嫌悪したからです。確かに、先号でお話ししたように「ソフトの製作」には、様々な大きな問題があり、その点では彼の主張はもっともだと納得できます。しかし、最近になって私は思うのです。彼は、もっと「聴衆」を信じても良かったのではなかろうか?と。否、音楽の解釈は本来「聴衆」の手にゆだねられ「聴衆」がなすべきものであって「指揮者」がなすべきものではないとさえ考えるようになっています。現実の演奏においても作曲者が意図したとおりに、つまり「作曲者の頭の中で鳴っていた音楽」が「ありのままに再現される」事などあり得ません。作曲された当時と今では「楽器自体の音」すら違っていますし「演奏される環境」だって、一部の違いもなく同じに再現しうるはずがありません。
彼ら偉大な指揮者や演奏家達が「演奏の純粋性」を何よりも重んじる気持ちはわかりますし、それに異論を唱えるつもりはありませんが、「音楽」とは、作曲者、演奏者、指揮者が意図しない瑕疵、不完全さすら寛容に包括して成り立っていると思うのです。より高い次元、より大きな観点からみれば、録音-再生という一連の流れの中で生じる「改変」ですら「音楽を破壊」することなどできないと思うのです。だからこそ、これほどまでにオーディオは愛されているし、万人に価値を認められているのです。「セルジゥ・チェリビダッケ」が、本当に嫌っていたのは「音を聞いて音楽を聴かない人々の存在」や「音楽を金儲けの手段としてしか見ていない連中」であって「豊かな心と創造力を持つ聴衆の存在」ではなかったはずです。もし、安価なCDラジカセで彼の演奏を聴き「人生が変わるほど感動したリスナーが存在する」ことを知れば、彼はきっと天国で微笑んでくれるはずです。
オーディオシステムから発せられる「音」は、人と人の心を結ぶ「架け橋」であって、お客様をオーディオショップにつなぎ止めるためのものではありません。まして、それをネタにつまらぬ自説を展開するためのものでは決してありません。ですから、つまらぬ話に耳を傾けたり、人の言うことを気に病んだりする必要などまったくありません。なぜなら「言葉にできないこと」を伝えるために生み出された「音楽」を「言葉」で語ることなど、未来永劫誰にも決してできるはずがないのです。そして何よりも忘れないでいただきたいのは「音楽を感じる心」は、生まれながらにして「あなたの中に備わって」いて、「音楽は特別な勉強や研究などしなくても、誰もが平等に感じることができる」のだということなのです。(以下次号に続く)
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