お正月気分もそろそろ完全に抜けて、新しい一年のリズムをつかまれたでしょうか?私は、いまだにラスベガスと日本の時差による軽い睡眠障害?に悩まされています。24時間の感覚がちょっとずれている感じで、仕事の効率が落ちています。気分が乗らない時に仕事をするのは辛いものですが、乗りの良い音楽でも聴きながら頑張ってみましょう。
今日のメルマガは、年末~年始にかけてお伝えした「新レコード演奏家論/菅野沖彦著」にかかわる内容のお話です。メルマガのバックナンバーの話を要約すると「生演奏とオーディオによる再演奏は違うものとして考えるべき」そして「オーディオによる再演奏は、時として生演奏を越える感動をもたらす」、「録音することで演奏(音楽)は、永遠の命を与えられる」だいたいこの3点が主張だったように思います。
今号では、この3つのポイントの中で「生演奏」と「オーディオによる再演奏」の違いがどれくらいまで許されるのか?そして「オーディオによる再演奏」で新たな音楽への解釈を与えること(生み出すこと)は、元の演奏を冒涜することになるのか?という部分についての私の考えをお話したいと思います。
20世紀最高の指揮者である「カラヤン」は録音を好み「チェリビダッケ」は録音を嫌ったことはよく知られています。ふたりの間にはかなり大きな確執があったことも事実ですが、録音嫌いなチェリビダッケの主張は「オーディオによる再演奏で自分の音楽を勝手に弄られたくないから録音はしない」というものでした。チェリビダッケはオーディオによる再演奏では、自分の演奏の真意や意図がねじ曲げられ正しく伝わらないと考えたと聞いています。
しかし、私はハッキリその考え方を否定します。もちろん、チェリビダッケは私の大好きな指揮者の一人ですし、直接彼と話をしたわけではありませんから、彼の考えを否定するといっても彼の演奏や人格を否定するつもりはまったくありません。これからの話の中でチェリビダッケは「オーディオによる再演奏では、自分の想いが正しく伝わらない」と考える音楽家の代表のようなシンボルとして捉えてください。
菅野沖彦氏は、著書の中でベートーベンが残した楽曲について次のように触れられています。<ベートーベンが生涯を通して作曲したピアノソナタは全32曲であるが、この中でベートーベン自信が曲名をつけた楽曲は「悲壮」と「告別」の2曲だけである。多くの場合、クラシックの楽曲に付けられた名前は楽譜を売るために出版社が付けたものがほとんどである。>これは、作曲者は必ずしも自分の曲に対して「絞り込んだイメージ」を持っていなかったという証でしょう。また、曲名を与えることによる「解釈の限定」を嫌ったともいえるのかもしれません。
さらに、菅野氏は著書の第10章<演奏解釈ということ>でブラームス自身の話を次のように引用されています。要約すると<ブラームスは彼が作曲した楽曲がある演奏家によって演奏され、それを聞いたときこれこそ正に私が意図した演奏であると友人達に言ったにもかかわらず、異なる演奏家がまったく異なった演奏を行ったとき、居合わせた友人達にはそれぞれがまったく違った演奏に聞こえたにもかかわらず、ブラームスはその演奏にも最大の賛辞を送ったため、友人達はブラームスにその真偽を尋ねたところ、ブラームスは、どちらの演奏も自身の意図を完璧に解釈した完璧な演奏だといったというのです。>つまり、友人達にはまったく異なった演奏に聞こえたブラームスの楽曲を、ブラームス自身はどちらも完璧に正しいと評価したと言うことなのです。
このような、古い話でしかも言い伝えられた物語には尾ひれが付き、あるいは断片をつなぎ合わせて脚色されることがあるため、本当の意味での真偽は計りかねますが、作曲者の多くは自分たちの作品に対して「固定されたイメージ」を持っていなかったということに違いはないと思うのです。
バックナンバーで取りあげた、夏目漱石の「こころ」が、それを読んだ人に様々なイメージを与えるのを漱石が望んでいたのと同じだと思います。芸術、特に音という曖昧ではかなく消えてしまうような媒体で形作られる「芸術」は、曖昧だから故に大きな価値があると思うのです。その曖昧さこそが「芸術」の持つ「広がり」であり、それが「芸術の価値、命」ではないかとさえ思います。そして「曖昧なこと」を「曖昧なまま」伝えられることこそ、数字で計れない芸術の本質であると思います。
もし芸術家や演奏家が「自分の意図を作品にして正確に伝えたい」と考えるなら、メッセージをあえて曖昧な芸術という形に託さず聴衆やそれに触れる人々すべてに「教室」でも開いて、黒板に詳細に文字を書き、曖昧さのない言葉でハッキリと説明すればよいはずです。100%取り違えを起こさないように、自分自身が間違いなく伝えればよいのです。そんなものが果たして芸術と呼べるのでしょうか?それはあまりに極論だとしても、芸術に許される「受け取る側の解釈の自由」は、芸術性を深めることはあっても冒涜することではないと思います。
従ってオーディオによる再演奏も「その範囲の中」であれば、変化を持たせてもかまわないと思うのです。たった一つの演奏が録音されることにより、そしてオーディオによる再演奏によって「さらに多くの解釈」と「より多くの感動」を聴衆に与えることが出来るなら、それこそ作曲者や演奏者の本望であるとさえ私には思えます。
ただし、最後に付け加えないといけないことは「プアな音」で音楽を聴いてそれを断定してはいけないと言うことです。音楽に対する見識の乏しいオーディオマニアが陥りやすい「機械への過信」が問題です。例を挙げるならクラシックをJBLで聞いたり、ROCKをTANNOYで聞いたとしても(注、ここでいうJBLやTANNOYとは、それぞれのスピーカーが持つ基本的な性質を言うのであって、JBLではクラシックは絶対に理解できないというのではありません)それぞれの音楽の本質に触れることは、難しいはずです。
つまり、あなたがそれに適さないオーディオセットで音楽を聴いて、その音楽がつまらないからといってそれを否定することは、音楽への冒涜であり明らかな間違いなのです。初心者クラスのオーディオマニアや、雑誌や機械オタク系のオーディオマニア(音楽やソフトの知識に乏しいオーディオマニア)が、概してそういった間違いを犯しやすいので厳重な注意が必要です。あなた方が聞いているのは「音楽」であって「音」ではないのです。オーディオセットで「音」を聞き比べたいなら「音楽」を用いるべきではありません。まして、そんな音で音楽を評価すべきではありません。
繰り返しますが、オーディオセットは、音楽を鑑賞し音楽の解釈を深めるためのもので、音を比較するためのものではないのです。音しか聞いていないオーディオマニアが演奏している音楽を聴き、チェリビダッケが失望し怒りを感じたとしても、至極もっともな事だと私は同感します。オーディオという「再生芸術」は、それを受け取る側にも演奏家と同等の「高い見識」を要求する趣味なのですから。「いい音」を出そうと試みるなら、オーディオ機器だけではなく、音楽を真摯に学ぶ努力も必要なはずです。