StereoSound(ステレオサウンド) 163号「続・新レコード演奏家論を読んで」

先号の本誌広告に書いたように、私は菅野沖彦氏「新レコード演奏家論」に大いなる共感を覚えました。書には「映画」と「舞台」を比べる人はいないと書かれていました。レコード(録音音楽)とは異なり、映画はそれ自体が評価され撮影現場と比べられることはないからです。
私は学生の頃、モノクロ写真を撮っていました。写真は動画と違い「切り取る一瞬」と「切り取る構図」を選ぶことで、撮影者の主観を出来上がり(作品)に反映することができます。さらに撮影時や現像時の処理によるテクニックを加えて「どれだけ感動的な写真を生み出せるか?」という「技を磨く」ことが写真という趣味の目的でした。風景写真、ポートレートはもとより、報道写真でさえ「どれくらい感動的であるか!」で評価が下され現場と比較されることはありません。撮影者の加える「脚色」は、歓迎されこそすれ「嘘」と糾弾されることはありません(ただし、報道写真でも音楽の編集でも真実や事実をねじ曲げてまで脚色すれば、それはやらせ(嘘)になってしまいます)。
それらに比べオーディオは、どうしてあんなにまで原音忠実にこだわるのでしょう。一つは量産オーディオ・メーカーが「いい音」を定義するときに「音楽的」という難しい説明を放棄し、より単純な「データに忠実な音=いい音」というコマーシャリズムに走ったためではないでしょうか?メーカーがあまりにも「原音忠実再生」を繰り返したため、いつしかオーディオマニアの頭の中に「原音忠実再生=最高のサウンド」という誤った図式が刷り込まれたと考えています。仮に本誌の製品紹介から、すべての「データ」や「スペック」を削除したら・・・、それでも製品の論評は成り立つでしょうか?難しいですよね?いい音をデータスペックに頼らず解説するのは、評論家にも難しいほどなのです。メーカーは、製品をより簡単に売ろうとするため、難しいことをきちんと説明するという重大な責任を放棄したのです。
もう一つの理由は、高級機で聞くにふさわしい音楽は「クラシック」と相場が決まっていることに原因があると考えます。今でこそ高級オーディオでJAZZやROCK、POPSをお聞きになられる方も多くなりましたが、オーディオの黎明期には、クラシックが「格式が高い音楽」として特別視されていました。クラシック以外のレコードがほとんどなかったという理由もあったと思いますが、とにかくこのクラシックが持つ「高い格式」がオーディオに「嘘」を許さない、演奏されたまま、そのままを「聞かせていただかなければならない」というリアリズムに対する過剰なまでのこだわりを生んでしまったと思えるのです。
話は変わりますが夏目漱石は、“こころ”を書き上げたとき弟子にこう言ったそうです。「私は、いつか死んでいなくなるが文学は永遠だ。“こころ”が後世に残り、それを読んだ多くの人々が感動してくれ、人生にすこしでも良い影響を与えることが出来るとしたらそれは素晴らしいことである」と。神経質なまでに自分の想いがどう伝わるかを気にしたといわれる漱石ですが、私は彼が書いた“こころ”の注釈本の存在を知りません。漱石は“こころ”に彼の思いのすべてを書き残せたわけではありません。漱石がそこに書き残せたのは、彼が思う“こころ”の断片、あるいは一面でしかないはずです。にもかかわらず、漱石はその注釈本を残していません。もし、“こころ”が漱石の考える事を寸分違わず記された書であれば、それは文学ではなく「哲学書」になってしまうはずです。彼の残した“こころ”は、こころの「断片」であるが故に「解釈の多様性」が許され、その「多様性(曖昧さ)」が芸術性を深めているのです。そして、それが何より素晴らしいのは“こころ”を読んだ人が、正しい解釈を著者である夏目漱石に求めなくても「それぞれの感動を持てる」所にあるのです。「曖昧」を「曖昧なまま伝える」。それこそが「芸術の本質」ではないでしょうか?
音楽のみならず芸術は「格式の高さ」ではなく「感動の大きさ」で評価されるべきです。例えば「ビートルズ」や「カーペンターズ」。彼らの音楽は世界中で愛され、多くの人々に感動を与えました。その影響力の大きさから考えても、私には彼らの音楽(POPS)がクラシックより格下だとは思えません。JAZZもROCKも然りです。しかし、彼らの音楽を聴くとき聴衆はオーディオとコンサートを比べ「どちらが正しい」という比較は行いません。彼らのレコードに編集や脚色があったとしても、聴衆はそれを歓迎こそすれ「嘘」であるとは非難しません。付け加えるなら、聴衆は「映画」と同じように「再生機器のクオリティー」による「リアリズムの違い」も問題としていないように思えます。ファンが求めているのは「リアリティーの高い音」ではなく「より深い感動を与えてくれる音」ただそれだけなのです。極論「感動」が伝われば、一般聴衆には「音質」などどうでも良いのです(多くのオーディオファンの奥様方と同じように!)。
コンサートでは、音は一瞬で消えてしまいます。最高の音を出せても、二度と同じ音は出せないかも知れません。もちろんその一瞬の儚さという「価値」も大切ですが、それを録音し保存すれば「感動」は時を越えて永遠に広がることができるのです。録音-再生というプロセスで「音質のリアリズム」は損なわれるかも知れませんが、その代償として“こころ”と同じように「高い普遍性」と「永遠の命」が与えられるとすれば、けっしてマイナスのトレードではないはずです。クラシック・ピアニストのグレン・グールドのように、ライブではなく「録音」にのみ「汚れなき芸術性」を見いだした音楽家すら存在しました。それらを重ね合わせて考えれば「オーディオ」は「生演奏の代用品」ではなく「生演奏と同等」あるいは「生演奏を越える」高い芸術性や、オーディオ独自の文化が存在すると認めても良いのではないでしょうか?
オーディオを通じて「音楽鑑賞(芸術鑑賞)の審美眼を磨き抜いた」あなたが、いつか自らのオーディオ機器で「普遍性を持つ素晴らしい演奏を再現する」ことができたなら、たとえ楽器を演奏できなくても、その行為は「音楽家が素晴らしい演奏をするのと同等の価値」を持つはずです。そして、それこそが「新レコード演奏家論」に書かれた「オーディオファン」としての本来のあり方だと思うのです。

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