前回のメルマガで「音色/トーン」と音楽の表現の関係について書きましたが、嬉しいことに旧知のお客様から次のような内容のメールを頂戴いたしました。
「いつもメルマガ楽しく拝見しています。いつも主張しておられること、全く同感です。私もアマチュア合唱を23年続けています。よくコンサート、アマの演奏会にも行きますが、人を感動させるのは演奏する人が何を言いたいのか(表現したいのか)です。それが音楽的に格調性を持っているか、つまり演奏する指揮者、演奏者伴奏者・・・・・の人間性・価値そのものが演奏を通じて聴く人に感銘を与えるか否かなのです。オーディオも、全く似た側面があり、仲間同士で聴きあうとき、究極は(=あるレベルを超えた時)オーナーの人間性を聴き合う事になることです。社長の主張される、オーディオの制作者(=設計者)の音楽性・人間性が評価される、と思っています。そういう意味で、つまりオーディオは人現性をさらけ出すという意味でおもしろくも、一方では、特にプロは怖さもある、と言うことです。」この意見には、私も全く同感で、音楽(オーディオ)の持っている芸術側面を端的に言い表していらっしゃるのではないだろうか?と思うのです。
音楽を演奏するのは、ある意味で自伝を書くのと同じです。なぜなら、演奏者が楽器を奏でると言うことは、自身の内面、内に秘めた「心象」を音に変換することに他ならないし、空間に放たれた音は、言葉より遙かに雄弁に演奏者の心象を表すからです。演奏者は、意図する、しないにかかわらず、演奏中は常に、自身が選んだ「音」によって「自分の内面」をさらけ出してしまうのです。なぜ「音」がこれほどまでに雄弁なのか?それは、音楽が元々その目的、つまり言葉では伝えきれない心象を音に変えて伝えるために生みだされたからなのです。
http://www.ippinkan.co.jp/setting/audio1_1.html (このページのSTEP1をご覧下さい)
心象を雄弁に伝える音。では、その中で「音色/トーン」とは一体どのような役割を担うのでしょう?この「音色/トーン」がどのようなものか?形を変えて説明するなら、「声色」をかなり近い存在として挙げることができるでしょう。
言葉を話すとき、私たちは無意識に「声色」を変えています。「怒った声色」と「優しい声色」は、まったく違う「音色/トーン」を持ちます。言語が違っても、その内容が何となく理解できるのは「声色」が万国共通だからです。人間に近い存在のイルカや鯨は、言語を持ちませんが彼らの発する鳴き声の「音色/トーン」は、種を越えて我々人間にも理解できます。犬や猫の鳴き声も同じです。「怒った鳴き声」と「甘える鳴き声」は、まったく違い、そして私たちはそれを瞬時に理解します。さらに驚くべき事は、まだ言葉を理解できない赤ん坊にも、その「鳴き声の声色」でその心象(危険か?そうでないか?)は伝わると言うことです。でも、それは少し冷静に考えればあまりにも当たり前だと言うことに気付けるはずです。言語の発達した社会に暮らす私たちは、まず言葉ありきと考えしまいますが、上記のページでも触れているように、人間が言葉を持つ前の時代では「声色(鳴き声の調子)」こそ、感情をコミュニケートする唯一の手段だったからです。このように音で心象を伝えるには、音階やリズムだけではなく、「音色/トーン」の存在が非常に重要なのです。
楽器の「音色/トーン」がどのようなものであるか?それを言葉で説明するのは、難しく困難です。しかし、生で楽器の音を聞けばわかりますが、「音色/トーン」は、声色よりも遙かに明確、明快で、なおかつ「色彩感」が非常に濃く感じられます。コンサートや楽器の音を聞いたときに、一瞬脳裏に「色彩」のようなものが浮かぶことはありませんか?それは、「音色/トーン」の一つの姿です。ホールで演奏されるクラシックを聴いているときに、その場の空気?が金色に輝くように感じたり、あるいは暗いブルーに変化するように感じたり、あるいはパーカッションの音が空中でぶつかるときに、まるで花火のように色彩が弾けるように感じられたり、このような直接的な色彩感を伴う音が、「音色/トーン」の正体なのです。
しかし、生演奏ではそれほど濃く感じられる「音色/トーン」の変化が、なぜかオーディオでは非常に薄くなってしまいがちです。オーディオのフォーマットで比較するとレコードよりSACDが、SACDよりCDで「音色/トーン」の豊かさが失われています。特にアナログからデジタルになると「音色/トーン」の色彩感が極端に減って(薄くなって)しまうのです。ここで一つ、デジタルになると「音色/トーン」が薄くなると言う証拠を挙げてみましょう。CDが発売される直前、市場にはアナログマスターを使ってカッティングされたレコードとPCM(デジタル)マスターからカッティングされたレコードが混在していたことがあります。この両者を比較することができれば、デジタルによって「音色/トーン」が失われることに気付けるはずです。アナログは「再生時に響きが付加されるので、音楽をリッチに楽しめる」と言いましたが、レコード(アナログ)の音の良さはそれだけではなく「音色/トーン」が、デジタルよりも遙かに多彩(もちろん、きちんとした高度なシステム同士での比較に限ります。ラジカセ程度の音質では比較できません)だと言う理由もあるのです。
しかしながら、この「音色/トーン」の重要性は、音楽界でも理解が不十分な場合があると、複数の音楽家から聞いています。「音色/トーン」の重要性が日本では正確に教えられていないと言うのです。著名な音楽大学でも、演奏はあたかも日本製の多くのオーディオのように「正確さ=間違わないこと」が最も重要とされ「何を、どのように、どれだけ表現するか?」ということについては、深く言及されることが少ないというのです。それが影響して、日本のオーケストラと海外のオーケストラには、「音色/トーン」の違いが生まれているのでしょうか?「音色/トーン」こそ音楽の命です。「音色/トーン」を失えば、音楽は表現力(心を打つ感動の力)の大半を失ってしまいます。しかし、残念ながら世の中に存在する音楽は、どんどんインスタント化し、「音色/トーン」を失い、それに同調して情緒を失っています。
音楽がこのように「インスタント化」することは、すでに30年以上前に著名な指揮者(名前は失念)によって予言されています。彼は、音楽が一部の利権者によって支配される(大きなレコード会社が音楽の流通を支配する)事を憂い、このまま音楽の商業化が進めば、いずれ音楽は現在の「ヒップポップ(ラップ)ミュージック」のような、簡単で稚拙なものに変化してゆくと予言したのです。そして残念ながら、現在の音楽の在り方は彼の言った通りになってしまいました。
さらに悪いことに生演奏の衰退も、音楽の失墜に拍車を掛けました。オーディオ(音楽再生装置)の発展により、生演奏よりも録音音楽が大きな利益を生むようになった結果、音楽の在り方(演奏の在り方)が、オーディオの発明以前と大きく変わってしまったのです。すでにお話ししたように、生演奏に比べて若者達が耳にプラグを突っ込んで聞いている多くのオーディオ(オーディオと呼んで良いのかどうかすら怪しい)機器は、ほとんど「音色/トーン」を再現できません。CDですら疑問を感じる音質がMP3などの圧縮オーディオによってさらに劣悪になりつつあるのです。彼らが聞いているのは、もはや音楽ではなく「ただのノイズ」に等しいものです。そこには、本当の意味での情緒は存在しないのです。
もちろん、音楽はすべて「音色/トーン」で成り立っているわけではありません。しかし、その存在が音楽にとって最も重要な部分であることは間違いのないことです。それを少しでも感じ取っていただくために、数枚のディスクを紹介したいと思います。一枚目は、前回のメルマガでも紹介した槇原敬之さんの「THECONCERT/WPCV-10181/2」2枚組のディスクですが、出だしの一曲目の前にステージに彼が登場する瞬間の「観客のざわめき」から、彼がどれだけ聴衆に愛されているかが伝わってきます。そこから、音楽が人を結ぶ強い絆を生むことが理解できます。そして、出だしのピアノ伴奏の音から、彼がどれくらい音楽を大切にしているか?どんな気持ちでステージに立っているのか?それがじ~んと伝わってきます。これはただの歌謡曲ですが、その瞬間のステージと観客席の一体感は素晴らしいものであったことがディスクに記録された「音色/トーン」から伝わってきます。良いオーディオ機器なら、思わず涙ぐんでしまうほどの表現でライブがプレイバックされます。実際にmarantzの恵比寿ショウルームで2003年11月に行ったイベントの最後に、このディスク(DVDで発売されている)を再生したとき、ご来場のお客様40名の中で1/10以上のお客様が目に涙を浮かべられたほどです。良いソフトを良い装置で再生すると、見ず知らずの方が涙を流してしまうほど、それくらいオーディオにも力があるのです。しかし、「音色/トーン」の乏しい装置でこのディスクを再生しても、その1/10の感動も伝わっては来ないでしょう。
それから、私が製品のテストにもよく使うソフトですが、矢野顕子さんの「SUPER FOLK SONG/ESCB1294(内容は少し違いますが、SACDならピヤノアキコ。ESCL-10004)」彼女の声、彼女の演奏するピアノの「音色/トーン」の多彩さは、J-POPの歌い手の中ではずば抜けています。クラシックピアノ演奏者でも、彼女ほど「音色/トーン」を大切にしている奏者は、そう多くないはずです。演奏に不要な音は一切出さないと評価される彼女の耳の良さは、すごいと思います。それと比較して、同じピアノの引き語りでも「Ken’s Bar/DFCL-1122」は、「音色/トーン」が控えめです。録音状況も異なりますし、楽器自体も違うのだとは思いますが、この2枚のディスクを比較すると楽器や演奏の「音色/トーンの差」が聞き取れると思います。もちろん、どちらのソフトも内容・録音には、申し分なく、好き嫌いはあったとしても、十分お楽しみ頂けると思います。
そして私が「音色/トーン」がすごい!と思うのは、「ジャニス、ジョプリン、PEAL/30DP-302」の8曲目、ジャニスが伴奏なしのアカペラで歌っている「ベンツが欲しい」です。こんなにパワフルで、こんなに強い「音色/トーン」の歌を他で聴いたことはありません。最近他界された、パバロッティーさんの歌声も、三大テノールの中では飛び抜けてすごかった(惜しい人を亡くした)と思いますが、ジャニスのボーカルはそれに匹敵すると思います。この素晴らしく表現力のあるボーカルの「音色/トーン」が持つ表現のエネルギーの大きさをオーディオ製品は、再現できなければならないはずです。
「音色/トーン」の存在を無視した音楽作り。これは、日本のみならず最近の世界的な傾向です。「音色/トーン」の再現に乏しい再生音楽では、音楽の表現はよりわかりやすい「言語」、「リズム」、「音の大小(メロディー)」などに頼らざるを得なくなります。より大量に、わかりやすく、インスタントに利益を上げるためにビジネスマンが音楽性をねじ曲げました。大きな利益を生めば生むほど、それに反比例するように音楽は失速し、その芸術性を失ったのです。それが証拠に少し前に一世を風靡した、AVEXなどに代表される最近の日本のビジネス流行歌では「音色/トーン」は完全に無視されていることが聞き取れます。表現されている内容も、実に稚拙極まりないものです。音楽の「わかりやすさ=経済効率」だけを追求した結果、音楽はその命を失ってしまったのです。
そして、さらに悪いことには、「音色/トーン」を経験したことがない人間が、「音色/トーン」の無い音楽と「音色/トーン」を再現できない装置を作り、それを厚顔無恥に大量にばら撒いていることです。それが、音楽の芸術性をどれくらい大きく損ねるかは、火を見るよりも明らかです。こんな世界では、芸術の発展は望めません。もっとゆとりと豊かさが無ければ・・・。今、音楽はその命をどんどん削られています。それと共に私たちや子供達の心も貧しくなって行くでしょう。もし、メモリーオーディオや携帯電話から、豊富な「音色/トーン」を持つ音が再現されるなら、私は断言しますが、人の心はもっと豊かになり、不要な争いごとは少なくなるはずです。「いじめ」もうんと減るでしょう。人間が人間らしい「情緒」を持てるようになり、それを思い出させてくれる機会が、日常的にうんと増えるからです。
こんなにもオーディオは、大切な生活必需品なのになぜ大メーカーは、きちんとしたオーディオ製品を作れないのでしょうか?なぜ、大メーカーのオーディオ製品は、「音色/トーン」をきちんと再現しないのでしょうか?それは、大メーカーに設計能力やノウハウがないというのではなく、体質が大きすぎる彼らからは、良いオーディオ製品は生まれにくく、また生まれても経済(経営)的に長続きしないという理由があるからです。なぜなら、オーディオ製品を真面目に製造販売するのは、「非効率」で「儲からない」ビジネスだからなのです。行列の出来る店の料理が、必ずしも旨いとは限らないように、一般大衆は驚くほど「質」に対して鈍感です。「質」が伴わなくても「広告」さえ上手くいけば、製品はヒットします。行列が出来るなら旨いと考えるのが、一般大衆なのです。さらに悪いことに製品ヒットの源となる「広告」では、文字に変えることができない「音の良さ」を訴えることが出来なかったのです。その結果として、大メーカーの中で「良い物を作っても売れない」なら「売れるものが良いもの」という、短絡した構造が出来上がってしまったのです。
このようにオーディオに関しては、大メーカーは、売れるものを作るのであって、良いものを作れるのではなかったのです。良い音のオーディオ製品を作ろうとすると、目に見えないコストがかかり、見た目よりも高くなってしまうと言うことも大きな問題です。高コストで手作りに近いような環境でなければ、本当に行き届いた良いオーディオ製品はなかなか作れるものではないのです。少量販売でプレミアムな商品だけで成り立てる小規模の専業メーカーならまだ何とかなりますが、大メーカーにとってこの現状は受け入れられるものではありません。しかし、だからといって、ユーザーの存在をまるで無視して、儲けに準じて勝手気ままにオーディオを作ったり、いきなり止めたりする(アナログプレーヤーの止め、売れそうになるとまた作る)のは、企業としてあまりにも無責任です。無節操な大企業とはいえ、オーディオ製品を作るからには、音楽文化の一端(現在は、かなりの部分かも知れませんが)を担っているという責任の欠片くらいは感じて欲しいものです。
このように今、オーディオと音楽業界が直面している現状は、それぞれにとって決して喜ばしいものではありません。もし、その中で私達ができる「音楽への貢献」があるのだとすれば?それは、音楽家に敬意を込めて、彼らの演奏を「良い音」で再生することだと思います。そして「良い音の製品」をじっくり選んで購入することです。音が良い製品しか売れなくなれば・・・、悪い音の製品が淘汰され、儲かるものしか作らない企業は、否応なしに「良い音の製品」を作らざるを得なくなるからです。