インターナショナルオーディオショウ、ハイエンドオーディオショウ、の2大イベントは、本日で終了です。今年は、天候に恵まれ何よりでしたが、これは!と言う製品には出会われましたでしょうか?
オーディオ製品の価格は年々上昇し、ついにインターナショナルオーディオショウでは、100万円以下のはめぼしい製品がメインで紹介されていないほどになってしまいました。年に一度のイベントという関係で高い商品をメインに据えることは理解できますが、果たして一体どれくらいの方が「購買目的」でこのショウに出向かれているのでしょう?
そんな中、ハイエンドショウの会場に手の届きやすい価格で年内発売開始が予定されている、QUADのCDとAMPが展示され、デモの音質も良かったことは嬉しいニュースです。外観は、伝統的に地味ですがイギリス製品らしく飽きずに長く使えそうなフィーリングを感じました。
さて今日のお話は、オーディオとは関係のない農業と科学のお話です。約30年近く前、大学時代の話です。私は「肥料学」という研究室に所属していました。当時行われていた肥料の研究は、主にどれくらい短期間に収穫を増やせるか?と言うものでした。しかし、すでにその頃から化学肥料の使いすぎによる「地力の低下(土地が痩せてしまう)」が問題となりつつありました。それは、化学肥料を大量に投入すると収穫は、短期間で大きく上昇するものの、数年以上連続投与を行うと化学肥料を投入しても収穫が上がらなくなったり、逆に作物が枯れるなどの逆効果を引き起こし、ひどいときには土壌が硬化し、まるで作物が育たなくなるという現象が起きていたのです。
その原因は、すでに判明しています。化学肥料には、作物に必要な一部の栄養分しか含まれていないことが原因だったのです。土壌の中に不足している重要な肥料を大量に含む化学肥料を投与すると植物は、短期間で大きく成長します。その時、同時に土地の中に含まれている(化学肥料には含まれていない)栄養分をすべて吸い取ってしまうのです。つまり、育ちすぎた作物が土地の栄養を過剰に吸い取ってしまう結果、土壌が痩せてしまったのです。自然のバランスを大きく欠いたこんな土地では、いくら肥料を与え続けても作物は育ちません。作物が必要とする栄養素(特に微量な栄養素)が、失われてしまっているからです。化学肥料を連続投与する前の肥沃な土壌は、黒々としていかにも有機物が豊富に含まれているように、柔らかくふわっとしています。しかし、化学肥料を大量に投与された後では、土は色あせ硬く、パサパサになってしまうのです。それは、まるで土壌が持っていた生命力がすべて作物に吸い取られ、抜け殻になってしまったかのようなのです。
当時私は、この現状を知り、できれば「土壌と共存できる農薬」が作れないものだろうか?と考え、大学4回生の時、独自の研究を1年だけ行いました。今の言葉で言うなら「バイオ農薬?」と言えばいいのでしょうか?作物の生長に直接関与する栄養素を施肥するのではなく、本来土が自然から与えられている素晴らしい力と環境のバランスを崩さず、それをより活発にするための農薬を施肥することで作物を生長させようという、いわば間接的な農薬の開発です。ミミズや微生物など土壌生物の働きを活発化することで土壌を肥沃にしようというこのような考え方は、今では割とポピュラーになりましたが(有機農法など)、当時はまだほとんど考えられていませんでした。私は、これこそが農薬のあるべき姿だと思いましたが、短期収益しか考えてない(つまり短期の金儲けしか考えていない)当時の肥料学の世界では、非常に異端な考え(金にならない研究)として大学に認められることはありませんでした。それが認められていたなら?私は、肥料学
を続けていたかも知れません。
しかし、大学を去ってから15年後「神と自然と人の革命/福岡正信著」という一冊の本と出会い、肥料学を続けなくて良かったとつくづく思いました。そこには、すでに私が決して到達できないだろうほどの高いレベルで「人と自然の共存」について述べられていたからです。この本は、農学書であると同時に哲学書です。人がどう生きるべきか?人が自然に生きるとは、どういう境地なのか?が記されています。この本の骨子は「共存共栄」という考え方です。自然のバランスから、それを学び英知を持つ人間だからこそ、それを重んじて生きなさい。という揺るぎなき方向性を持って書かれています。私は、この本を読んだとき涙が止まりませんでした。自分と同じ考えを持ち、それを貫いて生きた人の存在を初めて知ったからです。自分の考え方が「間違いではなかった」ことを知って嬉しかったのです。
私は、「科学者(技術者)」は、テクノロジー(技術)と同時にフィロソフィー(哲学)を学ばねばならないと考えています。難しい言葉遊びは本位ではないので、ここでは哲学を倫理観と置き換えるのが適切かも知れません。科学が倫理観を忘れて暴走すると、かならず怪物が生まれます。代表的な産物は、「原爆」です。自分が一体何を作っているか?科学者がそれを忘れたために生まれた大量殺戮兵器です。そして、それは実際に使われました。
こんな惨事を二度と引き起こさないためにも、どんなに小さなプロジェクトであったとしても科学者/技術者は、常に「自分の携わっている仕事」を強い倫理観を持って見直さなければならないと考えています。もちろん、科学者/技術者だけではありません。前にも書いたように、人に強い影響を与える立場の人間には、特別に強い倫理観が求められるのです。政治家は無論、起業家、実業家、社長、部長、課長、「部下」を持つすべての人達、特に教育に従事する立場では、絶対にそれを忘れてはならないはずです。もしそれを忘れてしまったら?「見えない原爆」が、世界を滅ぼすでしょう。
しかし、私の望みとは違って世の中は、またしても良くないニュースばかりです。企業は、社会という土壌に化学肥料を大量に投与して(短期的な利益を追求して)地(人)力を絞り取って(コストダウンのために元も簡単な方法=給料削減)います。遠くない将来、土壌は枯れ、何も収穫できなくなるのは、火を見るより明らかです。9年連続で平均給与は下落し、年収200万円を切る労働者が1000万人を越え、その一方で年収1000万円を越える労働者は10万人増えたと言うニュースは、それを端的に現すものです。誰もが一生懸命生きようとしているのに、こんな大きな不公平があって良いはずはありません。このまま企業が暴走すれば、確実に未来は枯れてしまうでしょう。それを止めるのは、その企業や国に属する個人個人、特に現状に大きな不満や不自由がないと感じている層が「このままではいけない」という明確な自覚を待つことが重要なのではないでしょうか?
話は変わりますが、10月1日に放送された「笑っていいとも増刊号」でSMAPの香取慎吾さんが、ライブで「世界で一つだけの花」を歌っているときの会場との一体感は素晴らしかった。みんなの心が「一つ」に繋がるのを感じて、すごく幸せな気持ちになって、ふっと「なぜこれほどまでに一体に繋がれる人達の間で、戦争や争いごとが起きるのだろう?」、「なぜ世界で戦争がなくならないんだろう?」と「こんな俺が、柄にもなくそんな神聖な気持ちになった!」とトークしていましたが、その気持ちは私もよくわかります。人と人の心を熱く結ぶために「音楽」の存在は、すごく大きなものだからです。
音楽による結びつきは、時として言葉よりもずっと大切な事があります。難しい本を読まなくても、いい音で音楽を聞くだけで、人間は自然と「共感の輪の素晴らしさ、心地よさ」を知り、それに身を委ね幸せな気持ちになることが出来るからです。芸術は、音楽だけではありませんが、こんなにも「人の心を一つに出来る芸術」は、音楽だけなのです。農学は、志半ばで挫折しましたが、今振り返ればそれで良かったと思います。
自分の働きが「肥料」となって音楽が豊かになれば、音楽が人の心を大きく育んでくれるだろうという夢を持てるからです。科学の力で人を豊かにする。形が変わってもこの仕事こそ自分が求めていたものであると実感しています。交流を深め、情報を交換し合って「音楽」に命を与えることで、豊かな未来を実らせましょう。