(前号から続く)
しかし、CDのようにまだ私たちが「聞き取れる」あるいは「感じ取れる」範囲内で急峻に高域をカットするなど「音をイレギュラーに操作(音を不自然に加工)」すれば、私たちが「スムースに音を復元できなくなってしまう」可能性が高まります。逆に「イレギュラーな部分(不自然な部分)」を隠すほうが、かえって「スムースに音を復元できる」とは考えられないでしょうか?これが、前3回のメールで説明したかった「意図した音質の劣化によって、逆に音質は向上して聞こえる」と言うことなのです。
この考え方が正しいと仮定すると、「測定的には、質の高い音」よりも「測定的に質の低い=意図した劣化を起こした音」の方がほうが「いい音に聞こえる」説明が出来ます。私は、データーと聴感覚が一致しない理由は、今までの経験からこのように説明できるのではないだろうか?と考えています。
私の仮説が正しくなかったとしても「脳」の働きを抜きにして、音質を語れないのは揺るぎない事実です。また音のみならず映像も同じように「脳」の働きを抜きにしては、その質について言及することは出来ません。
ただし、物理現象に従って生成されたのではない音や映像は、この限りではありません。それは、必ずしも物理の法則に従わずに変化をしているため「予測し欠落した情報を補うこと」が出来ないからです。シンセサイザーのように電気的に生成、あるいは加工された音、あるいはアニメーションのように「合成された映像」の場合は、脳による補完が不可能なため、その再現性は機器やフォーマットのスペック(データー)とほぼイコールとなります。見えないところ、聞こえないところ、はそのまま見えず、聞こえないからです。機器の測定に使うデーターもまた「人工的に作られたもの」ですから、人間には理解できない信号で測定された結果の「スペック/データー」と人間が感じる「音質・画質」に重要な関連性がないことが伺えます。
ただし、画質についての検証は、音質についてのそれに比べてうんと進んでいますから、スペックはある程度までなら(完全には信用できません)信用できると思います。
このようにスペック重視で機器を選んだり、データー重視で機器を開発すると、大きな落とし穴に落ちてしまうのです。芸術鑑賞は、そんなに単純なものではありません。
最後にもう一つ重要なことを付け加えます。ワンバウンドのボールを受けるには「トレーニング(反復練習による豊富な経験の蓄積)」が必要でした。音を聞く場合にも「生音」をどれくらい反復して聞いた経験があるか?そして「いい音(楽器として正しい音)」をどれくらい反復して聞いた経験があるか?によって、同じ音を聞いたとしても「その復元がどれくらい正確に出来るかどうか?」に大きな差が生じます。音質や画質の補完は「記憶(経験)」に大きく依存するのです。つまり、同じ場所で同じ音を聞いたとしても「聞く人の経験=耳の善し悪し」によってその装置から聞こえる音が「全く違って感じられる」事があるのです。
正弦波による聴覚テストの結果が優秀だからと言って、聴覚テストの結果に異常がないからと言って「音が綺麗に聞こえる」とは、言えません。それは、単純にこのメルマガの冒頭で説明した「反射ゲームの結果がよい=反応速度が少し速い」と言う結果でしかありません。実際に必要とされるのは、反応速度の少しの違いではなく、「正しい予想」を行える「脳のトレーニング=豊富な経験」なのです。音が聞こえた、聞こえなかった、と一喜一憂する前に、まず自分自身の聴覚を正しくトレーニングすることの重要性をご理解いただきたいと思います。ハードウェアーは、経験によって補えます。正しい経験を積むことで音が変わらなくても何倍、何十倍もの良い音でオーディオと音楽が楽しめるようになるのです。
良い耳で音楽を聴けるようになれば、「音の良い装置の価値」がより深く理解できるようになるでしょう。また良い音楽を聞くことで、リスナーの感性も自然に習熟してゆきます。良いオーディオは、このような良い連鎖反応を起こし、あなたの感覚と感性を飛躍的に鋭敏かつ正確にして行きます。良い映像再生装置も同様の働きを持っています。良い音と映像は、あなたの内面をより良く変えて行きます。また、あなたが好む音や映像は、あなたの内面が反映されたものです。自身の映像や音の好みを把握することで自分の内面をハッキリと知れるのです。頭を空にし心を開いて良い音と映像を見れば、五感は自然とリセットされます。心も自然なバランスを取り戻し疲れが癒されます。私には、とても大切なことです。