逸品館メルマガ083「海外ドラマ“SFもの”について」

私は、海外ドラマが好きです。中でもSFが大のお気に入りで、中でも「古いシリーズ」に興味を引かれます。今は、「スタートレック(初代のデジタルリメイク版、NHK・BSで放送中:何度も見ているのでほとんどのあらすじは覚えているが、それでもなぜかまた見てしまう)」と「宇宙空母ギャラクティカ(CATVで視聴中:見るのは始めて)」のシリーズを見ています。
古いドラマが好きなのは、「おおらか」だからです。例えば、宇宙空母の中で葉巻を吸うシーンなどは今では考えられません。禁煙団体からクレームが出るはずですし、今の時代のヒーローはたばこを吸いません。台詞にも人種差別的な偏りや民族蔑視的なものを感じることがありますが、それは彼ら流のユーモアの範疇で攻撃的なものではありません。しかし、今作られたドラマなら人権団体からクレームが入るでしょう。
時代考証や環境の考察にも破綻はいっぱいあります。宇宙SFで一番おかしいのは(これは、今ももおかしいまま)、真空中にもかかわらず音(効果音)が聞こえることです。空気がなければ、音は伝わりませんから宇宙空間は無音のはずです。しかし、それではドラマにならないので間違いを承知で音を入れるのでしょう。細かなことを見つけてクレームを付けて回る団体も、真空中で音が聞こえる間違いについては指摘しないのが不思議です。教育上は明らかな間違いなのに!
それはともかく、宇宙船や計器パネルなど今から見れば明らかに時代遅れのものも多く見られます。破綻しているドラマセットは、ウルトラマンの背中にチャックを見つけるようなものですが、なぜだか私にはそれがほほえましいのです。そればかりか、そんな「破綻」を見つけるのも古いSFドラマを見る楽しみの一つに数えられます。特撮、セット、そこにその時代の演出家の工夫が感じられると、なぜだか彼らと心が通じ合えたような気持ちになれるからです。
この時代のSFドラマは、ストーリーもほのぼのとしています。リアルなバーチャルリアリティーを追いかけるのではなく、現実世界の問題や大切な人間の心をSFという「オブラート」・「曖昧な形」に置き換えて訴えてきます。文章に当てはめるなら、普通のドラマが「小説」でSFは「詩」のような感じでしょうか?曖昧だからこそ、より深く伝わる事もあると思うのです。その点、最近のSFドラマは、あまりに良く出来すぎていて深みを失っているようにも感じます。これは、ドラマだけではなくTVゲームでも音楽の世界でも同じではないでしょうか?
曖昧さは、人間関係をスムースにするために重要です。何でもかんでも規則で縛ってそれを守ればいい。反面、規則で規制されていないならば何をしてもいい。私の大嫌いだった学校の教育がそれでした。人と同じであることを要求され、個性を持つとそれを捨てろと言われたからです。理由など聞かれません。彼らに都合が悪ければ、反対され罰を与えられる。そんな単純じゃないです。人間ってそんなもんじゃないです。自分自身の考えに基づいて責任を持って行動できる範囲を持てるのが、人間の素晴らしさのはずです。カーク船長が多くのファンを持つのも、ミスター・スポック、ドクター・マッコイ、機関主任・チャーリーが魅力的なのも彼らが「人間くさい」からです。描かれる彼らは失敗を恐れず、いつも前向きです。古いSFは、「人間らしさ」の大切さを思い出させてくれるから、私は大好きです。

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