逸品館メルマガ088「オーディオは、自由な趣味」

前回のメルマガで「音質」と「音楽性」に密接な関連はないというお話をしましたが、くしくも時期を同じくして、朝日新聞の「7月23日22面・音楽展望/吉田秀和」に音質と音楽性の関連についてのコラムが掲載されていました。内容は、二人の名ピアノスト、マウリツィオ・ポリーニとアルフレッド・ブレンデルの演奏を例に「前者の音は美しいが、後者の音楽には得も言われぬ深みがある。それぞれの演奏を聴き、演奏の音と音楽性は一致しないことがあると初めて気づいた。」というものでした。年配の音楽評論家が、今さらこんな話をなぜするのだろう?当然のことなのに・・・。という思いを感じましたがコラムの内容には全く同感します。
生演奏で「美音」は、単なる「餌」でしかなく「美」を見せ「音楽」という「真実」へ聴衆を誘うことが、コンサートの真の目的であるとセルジウ・チェリビダッケは言ったと聞きます。これらの話が示唆するのは、すべて同じです。「音質」と「芸術性」あるいは「方法や手段」と「結果」は、同一ではないのです。いい絵の具を使うと素晴らしい絵が描けないのと同じように、オーディオも高価な部品を使ったからといって必ずしもいい音が得られるわけではありません。細かいことをいうなら、高価な部品が必ずしもいい音でもありません。そんな事情があって、オーディオ製品は価格と音質や音楽性が比例しないのです。
それはともかくとして「美(品質)」と「真実(芸術性)」が無関係だとすれば、楽器やオーディオに高音質を求める意味がなくなってしまいます。高音質でなくても芸術は表現できるからです。しかし、もしそれが芸術のすべてならば(疑ってはいませんが)演奏はもっと質素な会場で行えばいいし、指揮者も燕尾服を着る必要はないはずです。
でも現実は違っていますよね。現実の世界では、時として理想と現実は矛盾します。矛盾することの方が多いくらいです。実用性がすべてであって良いはずの洋服や車でさえ「デザイン」に重きを置きます。”そう”とわかっていても私たちは「美しいもの」・「良いもの」・「優秀なもの」に思わず心を奪われます。音楽表現に「高音質」は必要ないと断言しながらオーディオや楽器、あるいはコンサート会場に高い質を求めるのも同じ事ではないでしょうか?
私たちは、常に「音の良さ」を求めそれに耳を奪われ、「一瞬の歓び」に身を任せてしまうのです。人間は、未だに「本能の求め」には逆らえない生き物です。欲望の求めるままに音の良さにしびれ、「本能を歓び」で満たすのか?あるいは、音楽の深みに触れることで「知的な歓び」を満たすのか?オーディオとの付き合い方は人それぞれです。
オーディオが自由だなと思うのは、それらのどちらを選ぶ必要もなくその時の「気分」で決めればよいからです。そして、それが自分の中から大幅にはみ出さない限り、対して人に迷惑がかかることもないのです。自分の音作りで自由を謳歌する。素晴らしいことです。

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