2008年8月8日からスタートしたBeijing Olympicは、いよいよフィナーレを迎えます。今回の祭典でも様々なドラマが生まれました。開会式はCGを多用し、歌手を吹き替え、消雨弾を大量に打ち込んで雨を消し、大国の意地にかけた隙のない完璧な仕上がりでした。しかし、そこまでしていったい「何」を伝えたかったのか?何に挑戦したいのか?私には、全く理解できません。少なくとも、それが人間の肉体と精神を競うオリンピックという「スポーツの祭典」に似つかわしくない不自然さだったのは、多くの異論を待たないでしょう。
競技は垣間見ただけですが、フェンシングの「銀」、柔道の「金」、伊調姉弟の「金と銀」、浜口選手の「銅」、そしてソフトボールの「金」が印象に残っています。それらのメダルは、選手の「自分への挑戦のご褒美」としてふさわしいと感じました。彼らは誰のためでもなく、自分自身の納得とプライドをかけて競技を戦い、全力を出し切ったのです。メダルを取れなかった選手も同じです。参加することに意義があるといわれた「オリンピック」の真実の姿をそこに見いだせて、自分事のように嬉しく感じました。
中でもソフトボールの「金メダル」獲得は、ベースボールのメダル逸失と対照的でした。たしかに競技のレベルが違うといえば、それまでかも知れませんが、あきらめることなくアメリカに3度チャレンジし、最後には天運すら味方に付けて、とうとう念願の「金メダル」を獲得した彼女たちの「熱意、情熱」は、もしメダルに届かなかったとしても、絶対に「金」にふさわしいと思います。まして彼女たちは高い給料を受け取っている「プロ野球選手」とは違って、金メダルを獲得しても将来の生活が保障されるわけではないのです。自分への挑戦を貫徹し、子供達の未来、ソフトボールの未来のために流した「汗」の代価として得られた「金」だからこそ万鈞に値するのです。
また、すでに勝者でありながらまたしても「金」をもぎ取った北島康介さんには、まさに王者にふさわしい貫禄すら感じました。逆境に耐え忍び、メダルを奪取する。日本人が「美徳」とする勝負の王道を行くような活躍に胸がすく思いでした。
それに対して柔ちゃんの「銅」や野球の無メダルは、無味乾燥に感じました。「汗」よりも「マスコミ」や「お金」の異臭がぷんぷんと立ちこめていたからです。商業的といえばいいのでしょうか?彼らはいったい誰のために闘ったのでしょう?彼らの勝利の代償は?勝利の目的は?純粋なスポーツマンシップに乗っとったものだったのでしょうか?もちろん、頑張った彼らのことを悪く言うつもりはこれっぽっちもありません。でも、それぞれの背負うものと精神の純粋性を考えたとき、競技の目的が違うような気がしたのです。そう、あの作られた開会式の「美」と同じ感触です。
次のオリンピックは、ロンドン。同じ古い文化を持っていても中国とは全く異なるイギリスの地でどんなドラマが生まれるのか?それは天のみぞ知ることですが、私はメダルに届こうが届くまいが「全力」を出し切った爽やかさが感じられる勝負が好きです。
正々堂々、全力を出し切れたら結果はどうでも良いじゃありませんか!お金では買えない、お金では繋がらない絆が、スポーツを通じたふれあいによって国境を越えて生まれる瞬間。それが、オリンピックのそして人生の一番大事な「金メダル」。私はそう思います。
たとえ表彰されなくても、自分の心に「金メダル級のプライド」を持って生きることは、彼らだけではなく誰にでもできるはずなのですから!
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