逸品館メルマガ173「終戦記念日に考える」

1945年8月15日正午、NHKラジオは天皇の肉声により日本の全国民に日本が戦争に負けたというお知らせを流しました。この日が日本での終戦記念日とされています。終戦から65年の社会変革は、皆様もご存じの通りの驚くべき早さと規模でした。奇蹟と呼ばれる復興を遂げた日本ですが、その変化の早さが社会に大きな歪みをもたらしたように思います。
私自身は戦争を経験していませんが、現実の「死」を前に戦争を経験すれば、甘さは即死に繋がる事実として心に刻まれることは想像出来ます。戦争による命の危機に直面し、それを生き延びた世代は「勝つこと=生きること」だと信じて頑張ってきたのではないでしょうか?団塊の世代も勝つことを目的とする価値を教育されました。この執拗なまでに「勝ち」にこだわる日本人の価値観は、確かに国際的に躍進するパワーの源となったでしょう。しかし、人生の幸せは「勝つ」事だけではありません。もっと多様であって良いはずでした。
敗戦から立ち上がり見事な復興を遂げた日本ですが、自殺者が多い国としても有名です。お隣の韓国も同じように自殺者の多い国ですが、それは「敗者には存在価値なし」という敗戦で得た考え方が大きく影響していると思います。65年前の敗戦という事実が、その後の日本人の考え方に大きな影響を与えたことは疑いようがありません。何かに追い立てられるように、目に見えない恐怖から逃れるように必死で頑張る姿勢。敗者は生き残れないという極端な考え方。日本社会が抱える歪み原因となる、この極端な考え方は「敗戦のコンプレックス」が原因だとも思えます。
振り返れば戦争前の世代、明治に生まれた人達の考えはもっと大らかであったように思います。勝ちや負けに対しての考え方はもっと寛容であり、人と人との繋がりや自然への愛や敬い、そういうゆとりが心にあったように思うのは、明治という言葉への憧憬だけではないと思います。人が生きる目的はもっと多様であって良いはずです。「勝ち」に執拗なまでにこだわり、頂点を極めるために自分自身を厳しく戒め、価値観を固定して生きる。それはまるで「勝ちにとらわれた囚人」です。自らを監獄におとしめるような生き方をせず、思想、感情の自由、行動の多様性を持つべきです。
「自らを自らの意見で自立できること」、それが自由の定義ですが、自由であるためには、「責任を取れないことをしてはならない」というのが最も重要な「大前提」になります。責任を取れない傍若無人な振る舞いは、「自由」ではなく「勝手気まま、ただの我が儘」でしかありません。私たちは「結果に対する責任を自分自身で取る」という約束を果たす代価として、自由に生きられることを認められています。しかし、今の日本では「自由がもたらす結果に対する責任の追求」が不十分ではないでしょうか?特に上の立場の人物は常に公明正大でなければ、社会は良い方向には向かわないと思います。
愚痴はともかく、今の豊かさを噛みしめ感謝しながら、自分にとっての幸せの意味を考える。年に一度の終戦記念日は、そのきっかけに一番相応しい日なのかも知れません。
考えがまとまらないとき、何かヒントが欲しいときには、音楽を聞いたり映画を観るのも良いと思います。人に伝えたいこと、分かち合いたいことを、短い時間に詰め込んで完成した音楽や映画には、名著作に負けない深みがあると思います。その感動をより良い音、よりより映像で、とことん引き出す。それもささやかな幸せの一つだと思います。

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