逸品館を創立した1990年頃は、広告は雑誌広告(紙媒体)が主流でした。当時まだ名前すら知れていなかった「逸品館」は、オーディオアクセサリー、ステレオサウンド、ビデオサロン、HIVIなどを中心とした雑誌広告で全国にお客様の層を広げることができました。けれど、ここ数年広告媒体は紙から電子媒体へと変化しています。さらに電子媒体の中でも、効果的な媒体がどんどん変化しています。
現在、逸品館が広告を掲載している雑誌は「ステレオサウンド誌」だけになりました。他の雑誌広告を止めたのは、効果がほとんどゼロになったからです。その「ステレオサウンド誌」に掲載している逸品館の広告も内容も最初の頃と今では、大きく変わりました。広告を始めた当初は「商品が主役」の内容でした。けれど、インターネットが台頭すると雑誌に掲載する商品情報が掲載される頃には、情報そのものが陳腐化してしまうことで効果がなくなってしまいました。そこで発想を転換し、雑誌には陳腐化しない情報を掲載することにしました。それが現在の「逸品館のコラム」になっています。けれど、この広告のやり方は、敬虔な読者層の厚い「ステレオサウンド誌」だけに通用する方法です。
今回のメルマガは、次号(195号)のステレオサウンド誌に掲載する、広告を掲載します。
ハイエンド・オーディオは生き残れるか?
文化を市場に浸透させるには、コストと時間がかかります。最盛期には様々な企業がオーディオ製品から得られる利益をTV広告や冠コンサートのような形で市場に還元し、音楽再生文化を育ててきました。けれど市場の衰退と共にそういう啓蒙活動が少なくなっています。普通、高度な芸術を理解するには、様々な経験から得られる「審美眼」が求められるのですが、音楽とは不思議な芸術で、本当に良い音楽は「年齢・性別・人種」の垣根を越えて、瞬時に理解・共有することができます。それはあっけないほど簡単で、驚くほど自然な感覚です。
これは「音」というものが、私達のDNAに直接響くからだと思いますが、私はそれを次のように理解しています。人が言語でコミュニケーションを図る前に行っていた、「鳴き声によるコミュニケーション」の名残が音楽であると。鯨やイルカが歌うことと、私達が音楽を演奏しそれを聞くのは同じです。だから良い音は生まれたときから平等に、誰にでも良い音として伝わるのでしょう。そういう観点から「ハイエンド・オーディオ機器」を見てみると、オーディオ機器が奏でる音楽が真に良いものであれば、それは生演奏と同じように「年齢・性別・人種」の垣根を越えて、万人を一瞬にして虜にできるはずです。もし「オーディオの知識を持つ一部の人」にしかその価値が伝わらないのであれば、それには価値がないのでしょう。もしそれが事実ならば「良い音のオーディオ機器」だけが生き残り、そうではない機器は淘汰されるはずです。けれど、そうではありません。そこに見過ごせない、広告の問題があるのです。「音」なしでオーディオ機器の良さを伝えようとすれば、音を文字で表現しなければなりません。けれど文字にできない感動を音に変えて伝えるのが音楽なので、本来それを文字に変えることはできないのです。文字で表現できるのは、契約や計算のような「定量化できる情報」です。音の良さや味わい、あるいは健康や幸せのように「不定形の情報」は文字では正しく伝えにくく、また受取手には情報の真偽を検証する手段もありません。
音の評価に話を戻しましょう。音の良さを的確に伝えるためには、それを何かに置き換えて伝えるしかありません。説明するのではなく、何らかの「イメージ」に置き換えてそれを伝えるのです。そのためには、著者が相応の創造力を駆使して文章を書かねばなりません。書かれた音のイメージは、読者の創造力を正しくかき立てるものでなければなりません。芥川賞作家であり、同時にオーディオ評論家でもあった「五味康祐氏」を例にあげるまでもなく、過去に名を残したオーディオ評論家は皆「名作家」でした。オーディオの芸術性、音の良さを伝えるには彼らのような高い文章能力を持つ評論家による、芸術的な評論文が必要です。
他方、オーディオの良さを数字に変えて表現する方法があります。スペックや新技術を解説するのは、オーディオの芸術面を評価するよりも遙かに容易く、より大きい数字を羅列すれば良いだけです。けれど、企業は文化を育てると共に、そういう方法で大衆を欺いてきました。最近盛んに取り上げられているハイレゾ、DSDの高音質は、オーディオ製品の芸術性(音楽性)とまったく無関係です。ステレオサウンドの読者皆様には釈迦に説法ですが、音よりも重要なのは、音楽性の高さです。どんなに良い音でも、心を打つ音楽として再現されなければ人は満たされません。市況が悪くなれば刹那的な利益追求のため、次々と意味なき新技術を投入して買い換えを煽る。それに寄生する広告媒体が、平気で人を欺く。音楽再生文化を生み出した企業やメディアが、今「音楽」から力と輝きを奪っているではありませんか。
DSD11.2MHzについて、こういうニュースもありますが、私はオーディオを「音楽を嗜むための手段」と考えています。高音質を求め、それを実現するための様々な技術やノウハウを探求しますが、追い求めるのは理想的な音楽再生であってその主軸はぶれません。それは機械を買ったときに得られる喜びよりも、より感動的な音で愛聴盤を聞けたときの感動が比べものにならないくらい大きいからです。