-
最新の投稿
-
女子部はみんなFF派!ファイナルファンタジーXIII
「社長のうんちく」カテゴリーアーカイブ
逸品館メルマガ353「2015年6月19日号」
何かと話題の多い、PC・ネットワークプレーヤー関連機器から、今大変よく売れているPioneer... 続きを読む
逸品館メルマガ352「2015年6月5日号」
6月3日放送の所ジョージ「一億人の大質問、の笑ってこらえて」の「パワーアップ、ちょっと昔の旅」のエピソードに感動しました。 子供服でおなじみの「ミキハウス」の社員が、5年近い有給休暇を得て「自転車での世界一周」に出発します。社員は社長に「辞表」を提出したのですが、社長が『辞めなくて良い有給扱いにするから』と返答し、さらに「旅行中の広告活動は禁止」、「無事帰ってくること」だけを命令したそうです。 ここまでなら、規格破りの元気社員と太っ腹社長の男前話で終わったでしょう。けれど「旅行中のギニアでのエピソード」は、それを遙かに上回る驚きの感動話。 ギニアを旅行中に「赤痢とマラリア」を併発し、死の危機に瀕した自転車世界一周野郎を、小さな村が一体となって救います。たった一人の医者は、村で6本しかないマラリアの特効薬を投与しながら、それは知らないと言います。村人は感染の危機を承知で、彼の面倒を見ます。 その甲斐あって、彼は9日で見事に回復します。けれど、彼のためにマラリアの特効薬をすべて使い切ったので、その後村人がマラリアにかかったら、救うことができないかも知れません。 命がけで人を助けながら、その人の負担にならないように最大の配慮を怠らない。自転車野郎「坂本達さん」は、この究極の人助けに触れ、考えが変わります。人は「ただ生きているだけで幸せなのだ」と「人が生きることは、様々な人の助けが合ってこそなのだと」。無事帰国した彼は、「やった」という本を書きます。 そしてその活動を伝える活動を行いながら、得られた収入をその村に「綺麗な水を届けるための井戸を掘る」事に費やします。そして遂に綺麗な水を度とどけることに成功します。そして「ほった」という本を書きます。 まだ、この二つの本は読んでいませんが、是非読んでおきたいと思います。たぶんそこには、現在人が忘れている「生きている幸せ」について、大切なことが書かれていると思うからです。 ... 続きを読む
逸品館メルマガ351「2015年5月29日号」
逸品館の掲示板に、製品を悪く評価するときには配慮が必要だという書き込みがありました。一つの意見だと思います。 しかし、今回の書き込みがそうだというわけではないのですが、インターネットの登場で「言論の自由」が、間違って解釈されているように感じます。朝日新聞は、今も「新聞の投稿欄は実名記載」という方針を貫いています。投稿者の安全を考えた場合、やや時代錯誤の感も否めませんが、「言論」と言うものに対する一定の見識だと思います。 「投稿は実名で」という朝日新聞の方針には、「自由と責任は表裏一体。何を言っても良い自由が保障されるが、同時に意見には責任を取らなければならない。」という意図が感じられます。この考えには大賛成で、匿名で成される書き込みやインターネット上の「責任のない意見」を、最近のように大きなマスコミがまともに取り上げてはいけないと思うのです。 なぜならば、それこそ匿名でなされる「腹いせや攻撃意図を秘めたグレーな書き込み」を肯定し、そういう愉快犯的な行為を煽る原因になっているからです。匿名による世論の誘導は、言論の自由に対する「テロ」になりかねませんし、事実正論がそれによって封じ込められたり、正しい論議が阻害されたりしています。国会答弁などその最たるものです。 加えて私がおかしいと思うのは、女性が事件に巻き込まれて死亡したとき、たいてい「着衣は乱れていない」と「不必要なこと」が書かれていることです。もし私が被害者の親だったら、相当腹立たしく思います。もちろんそれが、性犯罪を抑制する意図であれば納得ですが、果たしてそうなのでしょうか?それは、女性芸能人が結婚するとき「妊娠していない」と報道されることと、どのように関係するのでしょうか?男性の場合には書かれないことが、女性の場合だけ取り上げられる。性差別ではありませんか? マスコミは「人気」が利益ですから、たとえそれが世の中にとってプラスにならなくても、ページビューさえ稼げればそれで良い。そんな風潮に怒りと、無力感を感じます。 私は様々な機器をテストし、その「感想文」をWEBに掲載しています。最近では、さらに正しく情報をお伝えするために「高音質付き動画」をYouTubeにアップロードしています。そこでは良く評価される機器もあれば、悪く評価される機器もあります。けれど、それらはすべて感覚に基づく「感想」であり、その製品の音質を何ら保証するものではありません。 時には、信頼するメーカーの音質に納得できず、愛情の裏返し故に感情的に辛辣な評価を下している事もありますが、良いという評価も、また悪いという評価も、どちらも機器を選ぶときや、お使いの機器をさらに使いこなしていただく上での参考になると考えています。私は自分自身の趣味製品を選ぶとき、良い評価と悪い評価を同等に参考にしていますが、良いという評価よりは悪いという評価の方が「自分自身の感性を成長させる(知らないことを知る)」ためには、価値があると感じています。 前回ご紹介したDENON... 続きを読む
逸品館メルマガ350「2015年5月22日号」
先週の土日、中野サンプラザで開催された「ヘッドホン祭り2015春」に出展しました。参加されるお客様の過半数は、オーディオフェアの来客のマニア度よりもさらにマニア度が高く、「音楽を聞く装置」としてオーディオをもっと一般的にしたいという私の考えとは、少し違ったイメージでした。今年も秋に東京で開催される「ハイエンドオーディオショウ」に、出展しようと考えています。 ※予定を変更し、今年は「ハイエンドオーディオショウ」ではなく、「オーディオ・ホームシアター展2015」に出展することとなりました。 久しぶりに遠方からオーディオファンの友人が尋ねてきました。彼は回路設計を仕事にしている「プロ」なので、電子回路には詳しく自作もやっています。けれど、彼は「AIRBOWの音はどうしても出せない」と言います。それには、いくつか理由(秘訣)があります。 オーディオメーカーは「歪みの小さい機器(スペックに優れる機器)」を作ります。最新のAIRBOW機器は、「オーディオ機器そのものが、楽器のような美しい響きを生み出す」ことを念頭に音作りをしています。その目的を達成するには、「シンプルな回路」は不向きです。入力される音楽信号に「共振・共鳴」して響きを生み出せる部分が少ないからです。 例えば、電解コンデンサー(ケミカル・キャパシタ)は、それ自体が振動して響きを生みだします。生み出される響きは測定的には「歪み」です。一部のオーディオメーカーは、スペックを改善するために増幅回路からコンデンサーをなくそうとします。そうして生まれたのが「直結回路」です。けれど、こういうシンプルな回路は入力された信号をそのまま増幅してしまうため、ソフトの粗を暴きます。録音に優れた少数のディスクはよい音で聞けても、そうでないディスクは聞けなくなります。 初期のARIBOW製品は、そういう「ストレートすぎる音」でした。「音の良さ」を追求すると、「雰囲気の良さ」が薄くなります。逆に「雰囲気の良さ」を出し過ぎると「解像度(音の細やかさや明瞭度感)」が低下します。そのどちらも高めるのが、私も目指す音です。最高に音が良く、そして最高に雰囲気が濃い音を目指し、ここ数年でそれを実現できるようになりました。友人が聞いた5年ほど前から、現在の3号館の音は相当進化しています。音はさらに細かく、レンジが広くなったにもかかわらず、雰囲気は実に濃くなっています。 彼は3号館で持参した音楽をTAD... 続きを読む
逸品館メルマガ349「2015年5月1日号」
逸品館を創立した1990年頃は、広告は雑誌広告(紙媒体)が主流でした。当時まだ名前すら知れていなかった「逸品館」は、オーディオアクセサリー、ステレオサウンド、ビデオサロン、HIVIなどを中心とした雑誌広告で全国にお客様の層を広げることができました。けれど、ここ数年広告媒体は紙から電子媒体へと変化しています。さらに電子媒体の中でも、効果的な媒体がどんどん変化しています。 現在、逸品館が広告を掲載している雑誌は「ステレオサウンド誌」だけになりました。他の雑誌広告を止めたのは、効果がほとんどゼロになったからです。その「ステレオサウンド誌」に掲載している逸品館の広告も内容も最初の頃と今では、大きく変わりました。広告を始めた当初は「商品が主役」の内容でした。けれど、インターネットが台頭すると雑誌に掲載する商品情報が掲載される頃には、情報そのものが陳腐化してしまうことで効果がなくなってしまいました。そこで発想を転換し、雑誌には陳腐化しない情報を掲載することにしました。それが現在の「逸品館のコラム」になっています。けれど、この広告のやり方は、敬虔な読者層の厚い「ステレオサウンド誌」だけに通用する方法です。 今回のメルマガは、次号(195号)のステレオサウンド誌に掲載する、広告を掲載します。 ハイエンド・オーディオは生き残れるか? 文化を市場に浸透させるには、コストと時間がかかります。最盛期には様々な企業がオーディオ製品から得られる利益をTV広告や冠コンサートのような形で市場に還元し、音楽再生文化を育ててきました。けれど市場の衰退と共にそういう啓蒙活動が少なくなっています。普通、高度な芸術を理解するには、様々な経験から得られる「審美眼」が求められるのですが、音楽とは不思議な芸術で、本当に良い音楽は「年齢・性別・人種」の垣根を越えて、瞬時に理解・共有することができます。それはあっけないほど簡単で、驚くほど自然な感覚です。 これは「音」というものが、私達のDNAに直接響くからだと思いますが、私はそれを次のように理解しています。人が言語でコミュニケーションを図る前に行っていた、「鳴き声によるコミュニケーション」の名残が音楽であると。鯨やイルカが歌うことと、私達が音楽を演奏しそれを聞くのは同じです。だから良い音は生まれたときから平等に、誰にでも良い音として伝わるのでしょう。そういう観点から「ハイエンド・オーディオ機器」を見てみると、オーディオ機器が奏でる音楽が真に良いものであれば、それは生演奏と同じように「年齢・性別・人種」の垣根を越えて、万人を一瞬にして虜にできるはずです。もし「オーディオの知識を持つ一部の人」にしかその価値が伝わらないのであれば、それには価値がないのでしょう。もしそれが事実ならば「良い音のオーディオ機器」だけが生き残り、そうではない機器は淘汰されるはずです。けれど、そうではありません。そこに見過ごせない、広告の問題があるのです。「音」なしでオーディオ機器の良さを伝えようとすれば、音を文字で表現しなければなりません。けれど文字にできない感動を音に変えて伝えるのが音楽なので、本来それを文字に変えることはできないのです。文字で表現できるのは、契約や計算のような「定量化できる情報」です。音の良さや味わい、あるいは健康や幸せのように「不定形の情報」は文字では正しく伝えにくく、また受取手には情報の真偽を検証する手段もありません。 音の評価に話を戻しましょう。音の良さを的確に伝えるためには、それを何かに置き換えて伝えるしかありません。説明するのではなく、何らかの「イメージ」に置き換えてそれを伝えるのです。そのためには、著者が相応の創造力を駆使して文章を書かねばなりません。書かれた音のイメージは、読者の創造力を正しくかき立てるものでなければなりません。芥川賞作家であり、同時にオーディオ評論家でもあった「五味康祐氏」を例にあげるまでもなく、過去に名を残したオーディオ評論家は皆「名作家」でした。オーディオの芸術性、音の良さを伝えるには彼らのような高い文章能力を持つ評論家による、芸術的な評論文が必要です。 他方、オーディオの良さを数字に変えて表現する方法があります。スペックや新技術を解説するのは、オーディオの芸術面を評価するよりも遙かに容易く、より大きい数字を羅列すれば良いだけです。けれど、企業は文化を育てると共に、そういう方法で大衆を欺いてきました。最近盛んに取り上げられているハイレゾ、DSDの高音質は、オーディオ製品の芸術性(音楽性)とまったく無関係です。ステレオサウンドの読者皆様には釈迦に説法ですが、音よりも重要なのは、音楽性の高さです。どんなに良い音でも、心を打つ音楽として再現されなければ人は満たされません。市況が悪くなれば刹那的な利益追求のため、次々と意味なき新技術を投入して買い換えを煽る。それに寄生する広告媒体が、平気で人を欺く。音楽再生文化を生み出した企業やメディアが、今「音楽」から力と輝きを奪っているではありませんか。 DSD11.2MHzについて、こういうニュースもありますが、私はオーディオを「音楽を嗜むための手段」と考えています。高音質を求め、それを実現するための様々な技術やノウハウを探求しますが、追い求めるのは理想的な音楽再生であってその主軸はぶれません。それは機械を買ったときに得られる喜びよりも、より感動的な音で愛聴盤を聞けたときの感動が比べものにならないくらい大きいからです。 ... 続きを読む