みなさま、こんにちは。混沌の東京オリンピックがいよいよ始まりました。権力を持てば「心が腐る」という人間の悪い一面をこれほどまでにクローズアップされたのも、なかったことでしょう。
前回の東京オリンピックでは、多くの日本人が日本という国家に高揚を感じたことでしょう。しかし、今回の東京オリンピックでは、それと同じくらいの人々が、日本という国家に失望しているかも知れません。国家は個人の集まりだと考えると、日本人一人一人の心の中にある「自分さえ良ければ」という小さな思いがこういう結果に繋がったのかも知れません。
「記録(歴史)の扱い」にも大きな問題を感じます。人間性というものは、あくまでも全体像から導き出されるべきです。過去の一部の間違いを切り取って極端な方向に決めつけられるべきではないし、逆に「大きな問題でも記録に残らないように握りつぶせば罪は消える」わけでもありません。言い逃れたとしても、罪は消えないのです。目に見えるものだけ見て、見えないものは見ない。それはあまりにも軽薄です。
現代社会の問題には様々な角度からの見方があると思いますが、私は「お金(貨幣制度)」の存在に大きな問題を感じます。お金はとても便利ですが、同時に人間に欲望を限りなく増幅します。権力であったり、暴力であったり、貨幣がなければ人の欲望はこれほど肥大せず、もっと平等で平和な世界になっていたのではと思うのです。
そんな大きな問題はともかくとして、ずっと思っていたことですが「絵画」と「オーディオ」にはかなりの類似性を感じます。20世紀最高の画家の一人「ピカソ」は、最高の写実技術を持ちながら、晩年はそれを破壊し抽象表現を選んだことはよく知られています。「牡牛」をモチーフとしたピカソの版画は、「牡牛を写実的に表現していた初期」から後期には「ただの線」で雄牛を表現するように変化していますが、ピカソは「究極の置き換え」を探っていたのではないかと思うのです。「へのへのもへ」が人間の顔に見えるのは、錯覚であって、人間本来の顔とは似ても似つきません。2つの目、眉、1つの鼻と口、顔の輪郭だけで人間は人の顔を思い浮かべます。そして、たったこの7つのパーツの形状と配置だけで「表情」を読み取る(感じ取る)のです。細やかな描写も、色彩も必要とせず、人間の思いが伝わるのです。この「置き換え」が芸術の本質ではないでしょうか?
ピカソは、絵と人間の感性の関連性を研究し尽くした結果、誰もが考えつかない置き換え=独自の抽象的表現に行き着いたのだと私は思います。
オーディオは、どうでしょう?
私は30年以上あらゆるオーディオを聞いてきました。普通の人が一生かかって聞ける「オーディオの数」の何倍、あるいは何十倍もの装置を聞いてきました。その結果、オーディオのゴールも「抽象」にあると思うようになりました。
原音忠実再生はわかりやすいですが、突き詰めると破綻します。本物に近づけば近づくほど、人間は恐るべき正確さでそれを「虚構」だと見抜くからです。しかし、HiFiとはかけ離れた電話の声を「偽物」とは感じていません。
「原音忠実再生を目的とするデジタルオーディオ」を写実とするなら、「歪みが完全には取り除けないアナログオーディオ」は、抽象でしょう。
絵画とオーディオが完全に同じだというわけではありませんが、「再生技術」と「芸術的虚構」を融合させることで「シンプルに答えを導き出せる」のは、絵画と似ていると思います。
限界はありますが、音楽の感動を伝えるために「技術的な情報量」はある程度あれば十分です。より重要なのは、どんな音が人間のどのような感情を引き出せるか、すなわちオーディオが「人間のために何を伝えるか」だと私は思います。
優れた芸術作品が「想像(創造)の自由」をより広げてくれるように、優れたオーディオも「音楽の解釈の自由」をより大きく広げてくれるでしょう。そして、その「ゴール」は決して1つではありません。
最高の絵画が「1作品」だけでないように、最高のオーディオ機器もまた1つではないのです。
そう考えると「一番」を決めるためのオリンピックの存在が間違っていると気づきます。重要なのは「一番」を決めること、称えることではなく、それを目指すことなのですから。
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