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女子部はみんなFF派!ファイナルファンタジーXIII
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逸品館メルマガ056「浪速の商人の話」
今回のメルマガは、オーディオから離れて「浪速の商売人」のお話です。 私は、大阪市内の商家に生まれ育って、小さな頃から両親が商売をしているのを見て育った生粋の「浪速の商売人」です。大学を卒業してからも、家業が呉服関係だったこともあり明治後期や大正時代の「年配の商売人」と良く一緒に仕事をしていました。その頃にたたき込まれたのが「浪速の商売人の心得」です。 一般には「大阪の商売人は、がめつい」と思われているようですが、それは全く違います。大阪の商売人は「船場の旦那衆」に代表されるように、商売人であると同時に文化人であることが求められていたからです。私が、たたき込まれた大阪商人の哲学はいくつかありますが、全国的にも有名なのが「損して得取れ」という言葉だと思います。 この言葉の意味は「目先の利益にこだわらず、もっと大きな目線で商売を見よ」と言うことなのです。そんな大阪商人の私から見ると、最近の大手量販店の傍若無人ぶりは、ほんとうに「未熟だな~」としか思えません。本当に彼らは、目先のことしか見えていないからです。その代表的な行為が果てしのない安売り競争です。その結果がメーカーへの仕入れ価格の圧迫(過剰な値引き要求)-企業利益の圧迫によるリストラや賃金の下落。そして、ますます安いものしか売れなくなる。さらなる値下げ。という悪循環です。商売の土壌が庶民の生活なら、彼らがやっていることは、庶民の生活の破壊でしかありません。 その逆の例もあります。それは、空前の利益を上げ続けている「トヨタ」を代表とする「自動車産業」です。 確かに自動車業界でも、大幅なリストラやコストダウンは行われましたが「自動車の販売価格を維持」したことによって、平静が取り戻せつつあります。自動車業界が「消耗戦のような値引き競争」を行わないのは、各社の「自動車の販売価格」を見ればよくわかります。ほとんどのメーカーの代表的な車種の価格は「横並び」になっているはずです。もちろん、時々は在庫調整のために、大幅な値引きが行われることがありますが、そんな時でもそれを決して表面に出しません。それが表面に出た瞬間に、自社商品の信用が失墜し(買ってから値下がりが大きいメーカーの車種を再び新車で買う人はいない)、次の商品が売れなくなることを彼らは、身にしみて知っているからです。 そしてモデルチェンジの期間も国産車では、4~5年というサイクルが暗黙の内に守られています。この考えられ、調整された「生産サイクル」が彼らの利益を守っているのです。そして、なぜだか世界中?でこのルールは、あまり大きく変わることがありません。もし、家電メーカーがこのような「生産サイクルのルール」を守れたなら、これほどまでに家電業界は、ひどい状態にならなかったのではないでしょうか? 話を戻しますが「損して得取れ」という言葉の中には、この問題に対する戒めも含まれています。目先の利益ばかりを追っていると、消費者(お客様)は、必ずその店を見限ります。信用できないお店とはつきあえないからです。私は「金を追うな=目先の利益を追うな。まず人に喜ばれる仕事をしなさい。人が集まれば、自然にお金も集まってくる」と教えられました。それには、目先の損を恐れないで未来に向けて「種を撒く」という心構えが必要です。目に見えない未来を恐れずに投資するのです。それを貫くには、先を見る力と確固たる信念、そして情熱と辛抱が必要です。商売をただの金儲けと考えずに、哲学的にも考え、それを「文化」にまで昇華させたのが「浪速の商人」だと私は思っています。 また、逸品館の社長が偉そうなことを言ってる!と思わないでください。「商売」に対して、こんなに強いこだわりを持つ私でさえ頭が下がるような「商売人」が大阪には、まだまだ生き残っているのです。 約半年ほど前「運動不足」を解消するために、自転車を買いました。私は電車があまり好きじゃなくって、車の免許を取るまでは、20Km程度の距離なら自転車で出かけたほど、自転車好きだったこともあり、「こだわりの自転車」を買おうと考えました。インターネットで「こだわりの自転車屋」を探したところ、自宅から何と500mほどの所に「それらしい店」を発見することができたのです。(http://www.acquoso.com/)。... 続きを読む
逸品館メルマガ055「農業と音楽の話」
インターナショナルオーディオショウ、ハイエンドオーディオショウ、の2大イベントは、本日で終了です。今年は、天候に恵まれ何よりでしたが、これは!と言う製品には出会われましたでしょうか? オーディオ製品の価格は年々上昇し、ついにインターナショナルオーディオショウでは、100万円以下のはめぼしい製品がメインで紹介されていないほどになってしまいました。年に一度のイベントという関係で高い商品をメインに据えることは理解できますが、果たして一体どれくらいの方が「購買目的」でこのショウに出向かれているのでしょう? そんな中、ハイエンドショウの会場に手の届きやすい価格で年内発売開始が予定されている、QUADのCDとAMPが展示され、デモの音質も良かったことは嬉しいニュースです。外観は、伝統的に地味ですがイギリス製品らしく飽きずに長く使えそうなフィーリングを感じました。 さて今日のお話は、オーディオとは関係のない農業と科学のお話です。約30年近く前、大学時代の話です。私は「肥料学」という研究室に所属していました。当時行われていた肥料の研究は、主にどれくらい短期間に収穫を増やせるか?と言うものでした。しかし、すでにその頃から化学肥料の使いすぎによる「地力の低下(土地が痩せてしまう)」が問題となりつつありました。それは、化学肥料を大量に投入すると収穫は、短期間で大きく上昇するものの、数年以上連続投与を行うと化学肥料を投入しても収穫が上がらなくなったり、逆に作物が枯れるなどの逆効果を引き起こし、ひどいときには土壌が硬化し、まるで作物が育たなくなるという現象が起きていたのです。 その原因は、すでに判明しています。化学肥料には、作物に必要な一部の栄養分しか含まれていないことが原因だったのです。土壌の中に不足している重要な肥料を大量に含む化学肥料を投与すると植物は、短期間で大きく成長します。その時、同時に土地の中に含まれている(化学肥料には含まれていない)栄養分をすべて吸い取ってしまうのです。つまり、育ちすぎた作物が土地の栄養を過剰に吸い取ってしまう結果、土壌が痩せてしまったのです。自然のバランスを大きく欠いたこんな土地では、いくら肥料を与え続けても作物は育ちません。作物が必要とする栄養素(特に微量な栄養素)が、失われてしまっているからです。化学肥料を連続投与する前の肥沃な土壌は、黒々としていかにも有機物が豊富に含まれているように、柔らかくふわっとしています。しかし、化学肥料を大量に投与された後では、土は色あせ硬く、パサパサになってしまうのです。それは、まるで土壌が持っていた生命力がすべて作物に吸い取られ、抜け殻になってしまったかのようなのです。 当時私は、この現状を知り、できれば「土壌と共存できる農薬」が作れないものだろうか?と考え、大学4回生の時、独自の研究を1年だけ行いました。今の言葉で言うなら「バイオ農薬?」と言えばいいのでしょうか?作物の生長に直接関与する栄養素を施肥するのではなく、本来土が自然から与えられている素晴らしい力と環境のバランスを崩さず、それをより活発にするための農薬を施肥することで作物を生長させようという、いわば間接的な農薬の開発です。ミミズや微生物など土壌生物の働きを活発化することで土壌を肥沃にしようというこのような考え方は、今では割とポピュラーになりましたが(有機農法など)、当時はまだほとんど考えられていませんでした。私は、これこそが農薬のあるべき姿だと思いましたが、短期収益しか考えてない(つまり短期の金儲けしか考えていない)当時の肥料学の世界では、非常に異端な考え(金にならない研究)として大学に認められることはありませんでした。それが認められていたなら?私は、肥料学 を続けていたかも知れません。 しかし、大学を去ってから15年後「神と自然と人の革命/福岡正信著」という一冊の本と出会い、肥料学を続けなくて良かったとつくづく思いました。そこには、すでに私が決して到達できないだろうほどの高いレベルで「人と自然の共存」について述べられていたからです。この本は、農学書であると同時に哲学書です。人がどう生きるべきか?人が自然に生きるとは、どういう境地なのか?が記されています。この本の骨子は「共存共栄」という考え方です。自然のバランスから、それを学び英知を持つ人間だからこそ、それを重んじて生きなさい。という揺るぎなき方向性を持って書かれています。私は、この本を読んだとき涙が止まりませんでした。自分と同じ考えを持ち、それを貫いて生きた人の存在を初めて知ったからです。自分の考え方が「間違いではなかった」ことを知って嬉しかったのです。 私は、「科学者(技術者)」は、テクノロジー(技術)と同時にフィロソフィー(哲学)を学ばねばならないと考えています。難しい言葉遊びは本位ではないので、ここでは哲学を倫理観と置き換えるのが適切かも知れません。科学が倫理観を忘れて暴走すると、かならず怪物が生まれます。代表的な産物は、「原爆」です。自分が一体何を作っているか?科学者がそれを忘れたために生まれた大量殺戮兵器です。そして、それは実際に使われました。 こんな惨事を二度と引き起こさないためにも、どんなに小さなプロジェクトであったとしても科学者/技術者は、常に「自分の携わっている仕事」を強い倫理観を持って見直さなければならないと考えています。もちろん、科学者/技術者だけではありません。前にも書いたように、人に強い影響を与える立場の人間には、特別に強い倫理観が求められるのです。政治家は無論、起業家、実業家、社長、部長、課長、「部下」を持つすべての人達、特に教育に従事する立場では、絶対にそれを忘れてはならないはずです。もしそれを忘れてしまったら?「見えない原爆」が、世界を滅ぼすでしょう。 しかし、私の望みとは違って世の中は、またしても良くないニュースばかりです。企業は、社会という土壌に化学肥料を大量に投与して(短期的な利益を追求して)地(人)力を絞り取って(コストダウンのために元も簡単な方法=給料削減)います。遠くない将来、土壌は枯れ、何も収穫できなくなるのは、火を見るより明らかです。9年連続で平均給与は下落し、年収200万円を切る労働者が1000万人を越え、その一方で年収1000万円を越える労働者は10万人増えたと言うニュースは、それを端的に現すものです。誰もが一生懸命生きようとしているのに、こんな大きな不公平があって良いはずはありません。このまま企業が暴走すれば、確実に未来は枯れてしまうでしょう。それを止めるのは、その企業や国に属する個人個人、特に現状に大きな不満や不自由がないと感じている層が「このままではいけない」という明確な自覚を待つことが重要なのではないでしょうか? 話は変わりますが、10月1日に放送された「笑っていいとも増刊号」でSMAPの香取慎吾さんが、ライブで「世界で一つだけの花」を歌っているときの会場との一体感は素晴らしかった。みんなの心が「一つ」に繋がるのを感じて、すごく幸せな気持ちになって、ふっと「なぜこれほどまでに一体に繋がれる人達の間で、戦争や争いごとが起きるのだろう?」、「なぜ世界で戦争がなくならないんだろう?」と「こんな俺が、柄にもなくそんな神聖な気持ちになった!」とトークしていましたが、その気持ちは私もよくわかります。人と人の心を熱く結ぶために「音楽」の存在は、すごく大きなものだからです。 音楽による結びつきは、時として言葉よりもずっと大切な事があります。難しい本を読まなくても、いい音で音楽を聞くだけで、人間は自然と「共感の輪の素晴らしさ、心地よさ」を知り、それに身を委ね幸せな気持ちになることが出来るからです。芸術は、音楽だけではありませんが、こんなにも「人の心を一つに出来る芸術」は、音楽だけなのです。農学は、志半ばで挫折しましたが、今振り返ればそれで良かったと思います。 自分の働きが「肥料」となって音楽が豊かになれば、音楽が人の心を大きく育んでくれるだろうという夢を持てるからです。科学の力で人を豊かにする。形が変わってもこの仕事こそ自分が求めていたものであると実感しています。交流を深め、情報を交換し合って「音楽」に命を与えることで、豊かな未来を実らせましょう。 ... 続きを読む
逸品館メルマガ054「響き、音色/トーンの重要性・その3」
前回のメルマガでは「音色/トーン」の重要性を感じることができるソフトをPOPSから取りあげてみました。今回は、より「音色/トーン」が重要視される音楽クラシックのソフトを取りあげてみたいと思いますが、その前に楽器と「音色/トーン」の関係について少し説明したいと思います。 「シンセサイザー」という電気楽器をご存じだと思います。正弦波、ノコギリ波、矩形波などを組み合わせて、楽器の音を電子的に合成して作り出す装置です。シンセサイザーは、1970年代頃から音楽に使われるようになり、どんどん発達を続けて現在に至ります。最初は、単純な波形しか組み合わせることが出来ず、取り出せる音も単純でした。デジタル回路の進歩と共に、組み合わせることができる波形(音波)の数が飛躍的に増え、また生の楽器の音を録音して音源に使う(サンプリング)という方法が取り入れられてからは、生楽器にかなり近い音(音色/トーン)が取り出せるようになりました。このようにシンセサイザーの進歩は、複雑な波形(音波)が出力できるかどうか?と共にあります。複雑な波形こそ「複雑=深い音色/トーン」の正体だからです。 同様の考えを生楽器に当てはめましょう。トライアングルの音色は、非常に単調です。なぜなら、トライアングルの発音部分は、ただの丸棒を曲げただけの単純な形で、音が発生するのも打撃を受けた、一点から始まるため、発生する音波の波形が非常に単純だからです。 しかし、打楽器でも、シンバルになると様子が変わってきます。打撃は多点(点接触から面接触へ)となり、振動する物体の形状も単純な丸棒から、凹凸のあるすり鉢状へと複雑になります。シンバルに与えられた打撃のエネルギーは、シンバルの金属板の中を迷走しながら広がり、あるいはぶつかり合います。その結果として、シンバルの発する音は、トライアングルとは比べものにならない複雑な波形を形成するのです。この二つの楽器の音を聞き比べれば、音波の複雑さが「音色/トーン」を変えていることがわかるはずです。 バイオリンは、さらに複雑です。発音体の弦の構造は、シンバルよりも単純かも知れませんが、弦に振動(エネルギー)を与える弓の構造は、非常に複雑です。バイオリンの弓は、馬のしっぽの毛を束ねて作られ、この毛が引っかかったり、外れたりを繰り返して弦を振動させます。弦と弓が触れるポイントは、複雑に変化する多点接触になっています。その上、弦と弓の密着力(テンション)も連続に可変するため、弓から弦に加わるエネルギーの変化は、打楽器とは比べものにならないほど格段に複雑になっています。これらの「複雑なエネルギーの変化」が「弦=発音体」に加わることでバイオリンは、複雑な音が出せるのです。バイオリンを弓でなく指で弾いて(ピッチカート奏法)音を出すと弓で弾く場合に比べ、遙かに単純な音しか出せないことからも、弓で弦を弾くということがバイオリンの「音色/トーン」を万華鏡のように複雑にすることがわかります。 ここまでの説明でバイオリンが「複雑な音色/トーン」を持つことは、わかりました。しかし、多彩な音色を持つ楽器はバイオリンだけではありません。楽器の王様と呼ばれるピアノの「音色/トーン」も素晴らしいものです。それでも、小さなバイオリンが楽器の中で格段に多彩な「表現力」を持つ一番大きな理由は、「エネルギーが持続して加えられる」というところにその秘密があります。 打楽器でもピアノでも、発音体を振動させるためのエネルギーは一瞬しか加えられません。打撃を加えられた後は、慣性力により音が持続(減衰)するだけです。つまり、次の打撃が加えられるまで新たなエネルギーが加わらないため、音は単調な変化しかしないのです。しかし、バイオリンでは、弓から常に新しいエネルギー(つまり弓は、連続して弦を打撃している)が加わるため、一瞬の間もなくバイオリン「音色/トーン」は変化し続けることができるのです。複雑な変化が連続(持続)する事でバイオリンは、他の楽器よりも格段に多彩な表現力を手に入れられたのです。 このように弦を弓で擦るという方法で音を出す楽器は、バイオリンだけではなく各国で様々な形で発展しています。身近な楽器では、馬頭琴、鼓弓などが該当します。これらの楽器も打楽器や鍵盤楽器、吹奏楽器に比べて「音色/トーン」が複雑で表現力が多彩です。このように楽器が地域を越えて「同じ発展」を遂げたことから、音に対する人間の感覚(捉え方)が万国共通であることが伺えます。 話をソフトに戻し、いくつかのソフトを私なりに評しましょう。バイオリンの話をしたので、まず始めにバイオリンのソフトを選んでみました。まずナタン、ミルシテインの「無伴奏バイオリン、ソナタとパルティータ/輸入盤、2枚組、グラムフォン... 続きを読む
逸品館メルマガ053「響き、音色/トーンの重要性・その2」
前回のメルマガで「音色/トーン」と音楽の表現の関係について書きましたが、嬉しいことに旧知のお客様から次のような内容のメールを頂戴いたしました。 「いつもメルマガ楽しく拝見しています。いつも主張しておられること、全く同感です。私もアマチュア合唱を23年続けています。よくコンサート、アマの演奏会にも行きますが、人を感動させるのは演奏する人が何を言いたいのか(表現したいのか)です。それが音楽的に格調性を持っているか、つまり演奏する指揮者、演奏者伴奏者・・・・・の人間性・価値そのものが演奏を通じて聴く人に感銘を与えるか否かなのです。オーディオも、全く似た側面があり、仲間同士で聴きあうとき、究極は(=あるレベルを超えた時)オーナーの人間性を聴き合う事になることです。社長の主張される、オーディオの制作者(=設計者)の音楽性・人間性が評価される、と思っています。そういう意味で、つまりオーディオは人現性をさらけ出すという意味でおもしろくも、一方では、特にプロは怖さもある、と言うことです。」この意見には、私も全く同感で、音楽(オーディオ)の持っている芸術側面を端的に言い表していらっしゃるのではないだろうか?と思うのです。 音楽を演奏するのは、ある意味で自伝を書くのと同じです。なぜなら、演奏者が楽器を奏でると言うことは、自身の内面、内に秘めた「心象」を音に変換することに他ならないし、空間に放たれた音は、言葉より遙かに雄弁に演奏者の心象を表すからです。演奏者は、意図する、しないにかかわらず、演奏中は常に、自身が選んだ「音」によって「自分の内面」をさらけ出してしまうのです。なぜ「音」がこれほどまでに雄弁なのか?それは、音楽が元々その目的、つまり言葉では伝えきれない心象を音に変えて伝えるために生みだされたからなのです。 http://www.ippinkan.co.jp/setting/audio1_1.html... 続きを読む
逸品館メルマガ052「響き、音色/トーンの重要性・その1」
今月発売のステレオサウンドに「響きこそ音楽そのものである」と銘打った広告コラムを掲載しました。弊社HPには、すでに掲載済みなのでご覧になられた方も少なくないと思います。 http://www.ippinkan.co.jp/column/stereosound164.html このコラムに書いたように、最近はつくづく「響きを殺さず生かす」ことが大切だと実感しています。今月、AIRBOWからPM8001/StudioとPM6001/liveという2機種のプリメインアンプを発売しましたが、これらのモデルにも、この考えを取り入れ「回路で生まれる響き」を生かしながら音を作っています。 測定器では、「響き」は「歪み」として計測されます。その「歪み」が音楽にとってプラスに作用するか?マイナスになるか?それを判断できるのは、音楽を感じられる人間だけです。このようにオーディオ製品は、電子回路であると同時に楽器でもあるのです。オーディオ製品の楽器としての性能を確かめ、それを練り上げる唯一の方法は、「耳でアンプ(オーディオ製品)を作る」というやり方しかありません。 この方法は、昔から行われてきたことですが、最近新発売されているデジタルアンプの綺麗だけれど無表情な音を聞いていると「なぜこれほどまで心に響かない製品を作れるのだろう?」、「これらのアンプは本当に人間が聞いて作ったのだろうか?」と心底疑問を禁じ得ないことがあります。中身が薄っぺらになりつつあるのは、オーディオ製品に限ったことではありません。レストランやラーメン店の食事も然りです。どこに行っても「同じ味」。レトルトや冷凍食品を調理して、それが「料理です」と言われても、私は納得できません。きちんとトレーニング(修行)を積んだ料理人が、心を込めて作る食べ物が「料理(お袋の味も立派な料理!)」であって、インスタントに量産する食べ物は、料理とは呼べないと思うのです。 ただ、オーディオと違ってレストランが良心的なのは、インスタントな食事しか出さないレストランは「価格もそれなり」だと言うことです。マクドナルドには、マクドナルドの価格に釣り合った「味(パフォーマンス)」が存在し、そう言う意味ではバランスが取れているし、お客様は価格に応じてレストランを選べば、大きな外れなく価格相応のサービスが授受できるという点では、オーディオ業界よりも「良心的」だと思えます(ただし、安くても体に悪い添加物が入っているような食べ物を出されては別ですが)。 私から見れば、最近発売される「デジタルアンプ」の多くは、レトルトや冷凍食品と同じレベルにしか思えません。見かけは綺麗ですが(聞いた感じの音はよい)深み(音楽の表情)が足りないからです。これらは、使われている技術こそ最新ですが、音楽生成装置として考えた場合、旧来のアナログアンプに劣る(より安いアナログアンプよりも音が悪い)その内容は実に稚拙だと言わざるを得ません。現時点でデジタルアンプがアナログアンプに勝っているのは、発熱が少ないこと、消費電力が小さいこと、コンパクトなことのこの3点だけではないでしょうか?この長所を生かし、TV用のアンプや、携帯電話、パソコンなどの「家電品、家電情報機器」にデジタルアンプを搭載することは理解ができます。デジタルアンプの音をアナログアンプに置き換えるなら、フィードバックを多く掛けたアナログアンプの音に似ています。フィードバックを増やすと測定上の歪みは減りますが、音が無表情で冷たくなります。この冷たさを嫌って「ノン・フィードバック(無帰還)」のアンプを賞賛していたはずの、オーディオメーカーがなぜデジタルアンプを嫌わないのか?理解に苦しみます。デジタルアンプを「本物の味」を求められる「ピュア、オーディオ」に導入するのは、まだ時期尚早ではないでしょうか? ... 続きを読む