類は「音」を記録し「好きなときに好きな場所で再現」する方法を発明しました。その動機は「コンサートの記録再生」であることに間違いはないはずです。その後、「録音再生技術」は飛躍的に進歩、開花し、「録音音楽」はすでに「生演奏」を越える文化となりました。オーディオの発達がその発祥の起源である音楽を変えて行くのです。
このように「新しい道具の発明」が「新しい文化を生み出す」現象はパソコンの発達、インターネットの普及が現代社会と文化に与えている影響を例に挙げるまでもなく、今までの人類の歴史で幾度となく繰り返されていることです。その中にあって「オーディオ」は本当に「音楽芸術の発展」に貢献できているのでしょうか?たしかに、オーディオの進歩は「誰もがコンサートに行かずして音楽を聴ける」という、大きな利便を私達にもたらしてくれました。しかし、徐々に「コンサート(生演奏)を記録再生する」という本来の目的から大きく逸脱し始めているのではないかと危惧するのです。
「オーディオ」を純粋な記録再生技術として考えるなら、「装置」に求められるのは「再現性の正確さ」です。音楽は「音」で構成されていますから、記録再生時に「音」が変われば、当然「記録としての精度は保持できていない」と考えるのが当たり前です。にもかかわらず、現代のハイエンド・オーディオはこの「録音再生で音が変わる」という「大きな技術的問題」をなおざりにしたまま、理論や技術の一人歩きを許しているのです。雑誌や一部のマニアが煽り立て、「音が変わることをありがたがり、それを弄ぶ風潮」は使う目的も無い「技術開発」を続け、更に「理論を正当化するための理論」・「新たな技術を作り出すための開発」を繰り返し、ついには草も生えないほど文化を不毛にしてしまうでしょう。もっと厳しく言うなら、このような「意味のないギミック」を競い、一部の機械マニアを喜ばせるための開発に終始したオーディオ・メーカーが「オーディ機器の音楽不在」を引き起こし、音楽ファンのオーディオ離れに拍車をかけ、業界は自己崩壊を始めているのです。
巨大化・複雑化した科学技術は「技術のための技術」・「理論のための理論」を産みだし、どんどん細分化されて、科学と人間社会の融合性・方向性を見失い、あまりの急速な科学技術の進歩に人間が追いつけなかったのが20世紀かも知れません。「オーディオ技術」も、もしそうだとすれば21世紀にオーディオが目指さなければならないのは「ギミックとの決別」そして「芸術への回帰」なのではないでしょうか?
※ギミック:手品や玩具などの新しい仕掛け
音楽の発祥
「音楽」を正しく再現しようと試みるためには「音楽」そのものを良く知ることが大きな助けになります。まず、音楽を「発祥・起源」から考えてみましょう。
今、私達は「言葉(言語)」を用いて「コミュニケーション」を行いますが、人類の歴史の中では「言語」はずいぶん後になって発達した方法です。では「言葉」を発明する前に我々はどのようにして「コミュニケーション」を行っていたのでしょう?
それは、動物たち(例えば犬や猫、鯨)と同じように「うなり声」などの「言葉として意味のない音」でコミュニケーションを行っていたのです。私達が「言語」と同じように「音」に反応するのは、今風に言うなら「DNA」つまり、本能に刷り込まれた肉体の反射(記憶)だったのです。人種が違い、肌の色や性別、信仰する宗教が違っても「音楽」を共通に理解できるのは「私達は共通の祖先から生まれ本能的(動物的)には同じ」と考えれば納得できます。
人の生活形態を考えたとき、その特徴の一つは「集団生活を行う」ことですが、「集団生活」では「個々の生活」と大きく異なり、物資や情報などを「共有」し、「共有時に一定のルールを設けること」で「さらなる生産性の向上」を実現できれば、非常に大きなメリットとなることは明かです。
当然、「音」によるコミュニケーションにも「共有のルール」は適用され、個別の生活では「単なるうなり声」で良かった「音の使い方」に一定のルールを設けることで「よりスムースにコミュニケーションを図れる(より短い時間に多くの情報を共有できる)」ようになるはずです。原始の音は、このように一定のルールを与えられたことで「音楽へと発達」していったのでしょう。
「言葉」を持たなかった頃、人類は「収穫の喜び」や「死別の哀しみ」を「原始の音楽」により、表現・共有していたに違いありません。その名残りこそ現代の「セレモニー」での音楽の必要性だと思うのです。
音と音楽の進化
「音楽」の起源は「うなり声」であるとご説明しました。しかし、使用できる「音」が「声」だけでは情報を伝達しうる範囲・内容が限られてしまいます。そこで「もっと効率的な音を出す道具」が発明されました。「楽器」です。
最初に生まれた楽器は、「打楽器」ではなかろうかと思うのですが、「打楽器」を使ったことで「リズム」が生まれたはずです。さらに、複数の打楽器を使う場合には「リズムの整合性=ハーモニー」が必要となるでしょう。やがて「楽器」がその種類を増やすのに対応した「音の使い方の手法=音楽表現のバリエーション」が生まれ、お互いの進歩が干渉・融合しながら「音楽」はその複雑さと深みを増し、現代に至るのです。
音とイメージ(音楽表現)の対応
話を戻しましょう。「音楽」の基本は「音そのもの」が「直接イメージ」に対応しているということを順序立ててご説明しました。「危険を知らせる声(音)」や「愛をささやく声(音)」は、私達の感情にダイレクトに飛び込んで来ます。それに対して、五線譜に記述できるような「リズムやハーモニー・メロディー」などは、より高度な伝達を目的として「後から生まれ、発達したコミュニケーション方法(音楽手法)」であり、「音楽表現の最も基本的な部分」を受け持っているのは「音そのものの意味(力)」であることを忘れないで欲しいのです。時折、演奏家が「家を売って楽器を買った」というニュースを耳にしますが、それも「楽器の音自体にどれだけの価値を演奏家が認めているか」という、顕著な一例に過ぎません。
「音」が「イメージ」すなわち、「コミュニケーションの内容=音楽の感動力」に直接対応するなら、録音再生時に「音の純度(力)」が落ちれば当然、「音本来が持つイメージへの影響力」も低下(鈍化)するはずです。その場合は「音の純粋さ=聞き手をハッとさせる音の良さ」を基本に構成されている音楽が、最もそのダメージを大きく受けるでしょう。ジャンルでは「クラシック」。その中でも、シンプルに構成された「弦楽/ヴィヴァルディ」や「楽器の音色のハーモニーを重視したバルトーク」などは、大きな影響を受けるはずです。これらの音楽は、生で聴くのと再生音楽として聴くのでは、大きく異なることが珍しくありません。
しかし、同じ「クラシック」でも、音程(メロディ)やリズムを主体として構成・演奏された音楽は、比較的影響を受けにくく、また「歌曲」などのように「言語」を音楽に用いれば、少なくとも「言葉を聴きとれる」なら意味は伝わります。
こういう観点からみれば、最近のラジカセやウォークマンの音質では「クラシック」特に交響曲を楽しむためにはその「音質は絶望的」とすら思えます。
これでは若者が聴く音楽の主流が「電気的な増幅」を前提として作られた「POPS・ROCK」、極端に言えば「カラオケ・ミュージック」と呼ばれるような「簡便な音楽(ラップ・ミュージックなどはその代表)」に移って行くのも仕方がないと思うのです。
しかし、このような「人の心をハッとさせる音の力」がなくても成立する音楽には「生楽器でなければ表現できない深み」がなく、すぐに聞き飽きたり、年齢を増すごとに聴かなくなったりするでしょう。
ゼロ才から百才まで、多くの人に「名演奏」と呼ばれ愛される音楽を後世に伝えて行こうと思うなら、オーディオの音の純粋性(楽器の音の美しさをそのまま再現すること)は、決して譲ることのできない非常に重要なファクターなのです。
人間の音の認知
「音」が「ダイレクトに脳に訴えかける(心に働きかける=感動をもたらす)」といっても、それは「生の音」の話で、「再生音」は必ずしも「ダイレクトに脳に働きかけている」わけではありません。なぜなら、私達の脳は、「五感というセンサーからの刺激」を「全てそっくりそのまま受け取っている」のでなく、「無意識」に働く「脳内での情報分析機構」により「センサーからの情報」を「補完・選択」して、「受け取りやすい形(パターン)に変換」された情報を、私達は「意識」として受け取っているからです。
例えば、「ΥΦΧΨΩ」という文字を見てもほとんどの人はそれを読めず、内容に至っては全く訳が分からないことだろうと思います。また、この文字が「ΥΦ○ΨΩ」でも「ΥΦ△ΨΩ」でも「ΥΦ×ΨΩ」のように変化しても、ただの落書きという意味ではさほど変わらないように感じられるはずです。しかし、「あ○たはあめ」という虫食い文字があれば、ほとんどの人は「あしたはあめ」という文意に受け取るはずです。「あ_たはあめ」でも同じように受け取るでしょう。「ΥΦ○ΨΩ」と「ΥΦ△ΨΩ」が見た目に違って感じられるのとは正反対に、文字が変わっても「内容は変わらなく伝達された」ということになります。しかし、もし「あ○たはあめ」という文章を見る直前に「あなたはあめ」という文書を見た後なら「○」の欠落部分には「な」という文が当てはめられたはずです。「あなたはあめ」と「あしたはあめ」との文意は、一字違いでもまるで違います。似たような文字の羅列でも「記憶」がある時と、そうでないときには「認識に大きな違い」が生じるのです。
それは、「視覚というセンサー(器官)」で捉えられた情報が「そのまま脳(心)に入るのではなく」、視覚(聴覚)で捉えられた信号が一旦「脳の情報の補完・修正を行う分野」に送られ、「記憶というひな型」を基準に、「必要な情報だけを選択、補完」し、より「単純なパターン」として意識に送られている(触れている・認識=心に届く)ことを示しています。
「錯覚」という現象がありますが、それこそまさに私達が無意識の間に「物事を記憶のパターンに当てはめて判断している」証なのです。
「聴覚」における「音の認知」も視覚と同様に、鼓膜や内耳という「音を感じるためのハードウェアー(器官)」がとらえた刺激が一旦脳の情報分析野(無意識下)に入り「補完修正と重み付け」が行われてから「意識」に届いているのです。従って、虫食い文字のように「劣化した情報(オーディオで再生される楽器の音)」を聴いたときには、その情報を「元にもどす作業に必要なデータ」である「元の音を生で聞いた記憶」や「直前に聞いた音の影響」等の理由により、人それぞれの「聞こえ方(感じ方)」は著しく異なってしまうのです。
音と音楽の関係
このように、人間が「オーディオの音」を聴いて「生の音楽を聴いているように感じ」ても、それは「頭の中で作られた幻の音」であり、ある意味では「錯覚」です。テレビの人物(アイドル)が「実際に会って見ると全く別人」に感じることがあるのと同じように「オーディオセット」だけで「音楽を聴き」それに「感動を覚え」愛着を持ったとしても、それはテレビドラマの「主役」に、「擬似的な好感や反感」を持ち、いつしかそれが「主役を演じる俳優そのものへの感情」へとすり替わっているのと同じです。
ですから、「オーディオだけでしか聴いたことのない演奏」で、そのミュージシャンを判断する(決めつける)のは早計です。
近年クローズアップされてきた厳格な指揮者「セルジュ・チェリビダッケ」は録音を嫌ったことで有名ですが、精魂込めて作り上げた「音の芸術作品」をオーディオマニアが自分勝手に色づけしていたり、メーカーの技術者が独善的に作り上げてしまった「生演奏とは似ても似つかない幻のサウンド」で再現され、なおかつ勝手な価値観で演奏を判断されてしまうようでは、彼だけではなく「音楽に深く身を捧げた音楽家」なら、誰しも「録音」に対して懐疑的になり、オーディオを否定するようになってしまうのはしかたのないことかも知れません。
音楽と音の関係
「音楽を感じている」ということを、もう少し難しく捉えると「ある音波の刺激」により「脳に何らかの活動(心の動き)が生じている状態である」と考えられますが、「脳の特定の状態」を引き起こすのは、常に定まった「一つの音」であるとは限りません。「聞こえる音」が異なっても、「脳の活動を一定の範囲」に導くことができるなら、「音」が違っても「音楽的には同じに感じられることもある」ということです。
違う音を聞いているのに、実際にその音を聞いているのと同じように感じてしまう。これはまさに先ほどお話した「錯覚」という現象ですが「錯覚」をおこすと言うことは、「録音時と再生時に同じだと感じられる音」が必ずしも全く同じである必要はなく(もちろん完全に同一であればそれに越したことはありませんが)ある一定の範囲の中での音の変化は、音楽に大きく影響しない場合がある」と考えられるのです。
オーディオから出る音は、どのように似せようとも「生の音」と完全に同一にはできません。そこで「錯覚」を引き起こす要素、私達が「音のどの部分の情報を重要視して音楽を感じているか?」という考察が重要になります。これは、最近決まりつつある次期デジタルフォーマットの決定や、MDやMP3などの「乱暴きわまりない情報の切り捨て」とは、全く次元の違う話なので誤解しないで欲しいのですが、最近NTTが盛んに研究している「音声通信にきわめて有効な情報圧縮」の研究におもしろい事例を見つけることができます。
なぜこのような話を持ち出したのかと言えば、「再生時に避けられない音の変化」が「音楽性の変化に影響するのを回避する」ために、人間がどのように「音と音楽を関連付けて感じ取ってるか」という方向からの考察が重要になるからです。
測定器の限界
では「錯覚」をおこし、「直前に聞いた音の影響で聞こえ方が変わってしまう」不安定な人間の聴覚ではなく、現在のオーディオ測定器のデーターから機器の性能(音質)を判定しても良いのでしょうか? それは現時点では不可能です。なぜなら、人間が音を聞くときに必ず、そして一番最初に行っている、劣化した情報を「どのように補完し、重み付けているか」という最も重要な考察が、「現在のデーターの取り方では完全に欠落している」からです。
今はまだ、最も信頼できるオーディオ機器の開発方法は「人間が聴くこと」です。そのためのテスター(被験者)は「音楽や音と人間の大脳と心理の関係」を熟知し「正しい音の聞き分けのトレーニング」を積んだ人間でなければなりません。
そして「オーディオ機器の音質判定」を行うための音源は、決して「音楽」を用いてはいけないのです。なぜなら「音」を聴くことと「音楽を聴く」ことは、全く異なる脳の働きだからなのです。
先ほどの図形を例に挙げ説明しましょう。「あ○たはあめ」と「あ_たはあめ」は、補完された結果「あしたはあめ」という文意に受け取れました。しかし、「ΥΦ○ΨΩ」と「ΥΦ△ΨΩ」が見た目に違って感じられるのと同じように、「あ○たはあめ」と「あ_たはあめ」も見た目は違います。
ここでの「文字」という「記号」が「音」に当てはまります。つまり音の聞き分けとは、[○]・[_]と[○]・[△]双方の「記号」の違いを見つけるための「間違い探し」のようなものです。それに対して、「音楽を聴く」ということは、文字を読みとった後の「文意を判断する」ということなのです。最初の「文字の間違い探し」を行うためには「元となる文字を知っている=記憶している」必要があります。これが「音の聞き分けのトレーニング」なのです。極端な話ですが、トレーニングを積まないと「人間には何も聞こえない」のです。赤ん坊の頃から蓄積された「莫大な量の記憶」を手がかりに私達は「音の聞き分け」を行っているのです。そして「文意を判断する=音楽を聞き分ける」ためには、「文章を熟知=音楽を熟知」しておく必要があります。そうでなければ、虫食い文章を正しく埋めて、元の文意を読みとることができないからです。この双方を鍛錬し兼ね備えた人間が最も優秀なテスターにふさわしいのです。では、メーカーで音決めをしている「エンジニア(技術者)」はどうでしょう?
答えは悲観的です。エンジニアが音決めをすること自体が大きな誤りです。音決めはあくまでも「音と音楽の専門家(指揮者)」などに委ねるべきです。そうすることで、国産オーディオ機器の音質は飛躍的に向上するはずです。
また、「音」を聞き分けるときには、単純機械的な「間違い探し」だけを行うため、そこに「好み」という個人的な感情(色づけ)は入り込みません。しかし、「音楽を聞き分けよう」とすれば、個人的な感情と想像力を最大限に働かせ「虫食い文章を完成」させる「作文」を行わねばなりません。ですから、オーディオ機器の音決めに際し、「音楽(作文)」を基本に音の選択を行えば、二者択一を迫られたときに「迷わず好みの音楽表現(自分なりの作文)」を選択するはずです。なぜなら、それこそが個性だからです。しかし、そのようにして音を決められたオーディオ機器の音質は、きわめて個人的な色づけ(好き嫌い)が濃くなり、全てのジャンルの音楽を正しく再現することはできません。それは、今までに申しあげたとおりです。
AIRBOWの音質決定
AIRBOWの音決めは、次のような方法で行っています。好みに左右されないため、また「精度を高める」ため、自らが用意した録音機材で、楽器は当然プロ用の最高級品・演奏者も一流のプロ演奏家に依頼して、「音」と「音楽」それぞれの「マスターテープ」を作ります。
「音のチェック」の音源には「楽器のチューニングの様子」・「会話」・「物音」などを用い、「元の音との差異を調べます(オーディオ機器の間違い探しをします)。音質が要求するレベルに達したら、次に「音楽」のマスターテープを用いて「演奏」を聴いてみます。演奏を聴くときには、ある程度元の演奏(文章)が分かっているので、「再生されない情報(欠落した文字)」が、元の演奏に大きなダメージを与えていないか?をチェックします。
趣味としてのオーディオ
私達がオーディオ機器で聴こうとするのは「音楽」です。オーディオ機器でひたすら音楽を聴き、楽しむだけなら、難しいことを考えたり探求したりする必要はないと思います。しかし「趣味」とは「営利目的ではなく物事を楽しみながら探求・追求し極めようとすること(できれば自己啓蒙につながれば素晴らしい)である」と私は考えています。そういう意味で「拝金主義的(高いものを買えばそれで良いという考え方)なオーディオの薦め方」には大きな疑問を感じています。
確かに高価な機械ほど良い音を出せる可能性が高い事は否定できませんが、高価でない装置でも使いこなし方法と、装置の素性さえ良ければ十二分に音楽を楽しみ、趣味としての醍醐味を得ることができるはずです。オーディオ装置と音の関係をレーシングカーの操縦に当てはめるなら、初心者が高級スポーツカーに乗っても、普通乗用車を操るレーシングドライバーには決して勝てないのと似ています。「使いこなしのテクニック(正しい知識)」を磨かねば、どんなに高価で高性能な装置も宝の持ち腐れとなるだけでしょう。
お金を払って「にわかに手に入るもの」は所詮「浅い」ものでしかないのです。更に深くオーディオを追求しようとするなら、むやみな買い換えをやめ、使いこなしの努力を続けることによって、「普段気にも留めないほど些細な事」が実はとっても「深く」大切な事に気づけるはずです。そして、「音楽」の中には「そういう内容を示唆する演奏」も少なくありません。しかし、そういう演奏こそ「不要な色をつけずに取り出さ(再生)」なければ、その価値を大きく損なってしまうのです。ですから、私が「趣味としてのオーディオのあり方」として、第一番に考えることは「音楽を自分勝手に作り替えないように心がける」ことなのです。
シンギング・ボックス(歌う箱)
私達の顔を見てください。目も耳も左右に一つずつあります。試しに片方の耳をふさいでみれば、とたんに音の方向性が損なわれ、立体感(前後感)がなくなります。これは、聴覚が「左右の耳の情報を重ね合わせて音の方向性」を判断している証明です。人間は「約1/1000秒(もう少し細かいかも知れませんが、1/10000秒以下ではありません)」単位の鼓膜への圧力値(音圧)を脳に送り、左右の情報を重ね合わせて「方向を判断」しているのです。その時の分解能は、人種や性別を問わずほぼ正確に1/100000秒(ツノダテストより)であると言われています。
人間の耳の時間軸方向の分解能データーに基づいて、音の広がりをきちんと出すためのに許される距離誤差を考えると音速340m/秒の1/100000秒に相当する距離は僅か3.4mmなのです。そうなると、二本のスピーカーから左右の耳までの「音波の到達時間と圧力の関係の整合性」は従来考えられていた精度よりも遙かに細かく、スピーカーの設置誤差はmm単位というシビアさが求められることが理解できます。(この精度を実現するのがレーザーセッターです)
また、リスニングルームの反射音、特に第一回目の反射(一次反射)と直接音の関係も方向性を判別(演算)するための重要な要素ですから、スピーカー近辺にガラスなどの反射が強く面積の広い物を置かない、スピーカーを壁に近づけすぎない、壁と正対させないなどの配慮が必要です。残響特性も大切で特定の音響エネルギーが消え残ったり、消えすぎたりしないフラットな残響特性を実現したいところです。(スピーカーセッティングの詳細を見る)
これらの要素を考慮しスピーカーをベスト・ポジションに設置するのは不可能に近くなります。また、「音の精度」を確立するためには音の入り口から出口まで「厳密な一貫性」を持たせることが理想です。どうですか?論理的に突き詰めた理想のオーディオと現在の高額オーディオの精度がいかにかけ離れているかおわかり頂けるでしょうか?
極論を述べてしまえば、どんなに高額な装置を買ってもセッティングとルームアコースティックがでたらめでは、その真価の1/10も発揮できないのです。逆に、人間が音楽を感じるときに必要とされるすべての要素を的確なバランスで満たすことができるなら、1/10の価格で遙かに聴いて心地よいオーディオ製品を作りだすことは可能なのです。
すべての人が買える価格で、小さく軽く、取り扱いが簡単な音の良いステレオ。全てを一つの箱に収め、小さな箱から無限の広がりを持つ「トゥルー・ミュージック(生演奏のような音楽)」が奏でられるならどれほど素晴らしいでしょう? 「シンギング・ボックス(歌う箱)」。それが「AIRBOW」の目指す理想のデザインです。
そして、2001年6月遂に“シンギングボックス第一弾“が発売されました。この装置はもちろん”無料貸し出しにて広く評価”をして頂きたいと考えています。音楽とオーディオは、一部の恵まれた人達だけのものではなく、それを愛し必要とするすべての人に平等でありたいと心から願います。