A&V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 78号「メディアの責任」

皆さん、お久しぶりです。A&Vビレッジが掲載していた「健康食品」に問題が発覚した関係で、しばらく本誌を離れていました。私が広告と記事の掲載を始めるにあたって、私が考えるメディアの責任というものの考え方をお伝えしておきたいと思います。
ちょうど「ホリエモン事件」が問題となっているので、それを例に挙げたいと思います。ホリエモンは、球団買収のニュースを切っ掛けとしてメディアをにぎわすようになりました。その後は皆様もご存じのように、まるで「タレント扱い」でTVにCMに引っ張りだこでした。ところが「時代の寵児」と祭り上げておきながら「逮捕」の一報が入るやいなや各局はこぞって「自粛」あるいは「降板」を決めまるで悪者扱いです。
この変わり身の早さ。取りあげ方の極端さが無責任でないなら、何を無責任というのでしょう。
ホリエモンが登場した当初は、私も「若者の代表」・「向こう見ずな若武者」という好印象を持っていたのですが、すぐに「単なる金の亡者」だとわかり、ホリエモンを初めとする村上ファンドなどのIT関連投資会社を冷ややかで軽蔑した目で見るようになりました。確かに「働かずして大金が儲かる」と言われたら、誰でも心が傾きます。でもよく考えてください。株式投資で得られる「利益」は、正当な労働の対価としてもたらされたものではありません。パチンコや宝くじなどのギャンブルと同じで「誰かが損失を被った結果、分配された利益」なのです。もっと簡単に言うと「ズル」をして得られたお金なのです。
今は、株式市場にお金が流れ込み、バブルの頃のような盛況がもたらされていますが、もし何かあって市場から資金が引き揚げられたなら?あなたの持っている株券や預貯金はたちまちただの「紙くず」になってしまうでしょう。もし日本が「株式投資を国家事業」としていたなら国が滅びます。
メディアがこぞって「単なるお金の亡者」を祭り上げた結果、誰も「真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなり」日本が滅びたらその責任は誰が取るのでしょう?メディアにその責任はないのでしょうか?
逆に考えてみましょう。ホリエモンの登場時に全メディアが「真面目に働かずに大金を得るなんてもってのほかだ」と正論を投げかけていたらどうでしょう?多くの国民は、正当な労働に誇りを持ち日本はより一層栄えたかも知れません。もしそれが現実となったとき、メディアはきっと我先に「功を自慢」することでしょう。
結局、今のメディアは、一貫した「論理、哲学、主張」を持たず「流行」と「それに伴う利益」を追いかけているのではないでしょうか?それでは、まったく中身のない「株式市場」と同じではありませんか?
メディアの利益とは一体なんでしょう?自分の放送局、自分の雑誌社、そこに在籍する人達が「食える」と言うことは確かに大切でしょう。でも、もし毒のある食べ物を販売して利益を得たとしたら?「食品衛生法」の取り締まりの対象となるでしょう。車などの工業製品にも「安全基準」が定められており、各社はそれを厳守しなければなりません。ユーザーに危険なもの、ユーザーの命を危険にするようなものを作ったり、販売できないように「法」による規制があるのはご存じだと思います。でも、メディアが流す情報に対する「規制」と「罰則」は、あまりにも緩やかです。言論の自由と言いますが「自由」には「責任」が伴うと「道徳の時間」に学んだはずです。
メディアは「お金を払って情報を買う視聴者」に対し「視聴者が不利益となるような情報は排除」するくらいの「見識」があってしかるべきだと思うのです。何でも「面白いから」・「儲かるから」そんな理由だけであらゆる情報を垂れ流しにして良いわけはありません。もし、そう言う「倫理観」が欠如するなら、出来の悪いインターネットの掲示板と同じです。
最近あらゆるメディアが情報提供のプロとしての「プライド」を失ってしまったと考えるのは私だけでしょうか?まあ、一国の代表者でさえホリエモンを持ち上げたことを「人のせい」にしてしまう国ですから、メディアにそんな「高い道徳意識」を求めること自体、無理なのかも知れません。なぜなら、「働かずに大金を得る方法」・「濡れ手に粟の金儲け」を一番狙っているのは、彼ら自身なのかも知れないのですから
さて、長い愚痴はこれくらいにしておいて、私がなぜ広告と記事の掲載を再開するかを説明します。弁証法という言葉をご存じでしょうか?「テーゼ」(These)という「ある命題」に対して「アンチテーゼ」(Antithese)という「反命題」が発生して対立した場合、そのどちらかを捨て去って選択するということではなく、それぞれの短所を上手く捨てつつ、二つの命題の総合的なものが成立するという考え方です。対立するものがつぶし合うのではなく、議論によって相互の問題点を明確にし、高め合って総合に到達し「アウフヘーベン」(aufheben)と呼ばれる「新たな高み」へと発展させる。という議論の展開方法です。
弁証法には終わりはなく、到達した新たな高みが「新たなテーゼ」となり、またそれに対する「アンチテーゼ」が立てられ、そして「総合」が生まれ、またその「テーゼ」、「アンチテーゼ」・・・・・・・・・・と果てしなく発展を続けるのです。
ここしばらくのA&Vビレッジの読者の議論や、閉鎖されたA&Vビレッジのホームページの掲示板に足りなかったのが、この考え方だと思うのです。意見は意見として正当に評価し、それに対し真摯な答えを返す。公平な倫理観と道徳観を持って、誠実に議論を交わす。そう言うごく当たり前の小学校の道徳の時間(今でもあるのかな?)で習ったような、議論や会話を進めるための基本中の基本(国会でもまるで守られていないが)に沿って、堂々と意見や反論を発表し、持論を展開するために、私は記事を投稿し、広告を再開することに決めました。
「命題」に対して「反命題」が生まれ、議論が白熱するという部分では、オーディオ(アクセサリーや技術解説なども含む)の評価や音楽の評価も同じです。違いがあるとすれば、個人的な「多様性」が認められることでしょう。
悪い音を出していても、それが大きな音でない限り「誰にも迷惑」はかかりません。自分自身が「良い」と思った音を出せばよいのです。究極の自己満足の追求が許されることが、一般的な議論と違うところです。しかし、それを「人に押しつけるようになる」と事情は変わります。「正しい音」と「好きな音」は違います。同様に「いい音」と「好きな音」も明確に違います。前者は「普遍性」を持ちますが、後者はそれを持ちません。「一人でも多くの満足を求める」ことと「ただの自己満足」は、まったく違います。
多様性という言葉で何もかもを「ごちゃ混ぜ」にするのではなく、私が意見を述べることで一つ一つの命題や議論を「整理」するお手伝いが出来ればと考えています。

2006年3月 清原 裕介

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