逸品館メルマガ036「目に見えないものの価値」

「花冷え」の言葉通り、桜の季節の直前に冷え込んでいますが、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

こんなに少し、それも年に僅かな期間のちょっとした季節の変化まで繊細に言葉で表現できる日本語って素晴らしいと思いませんか?私は言語学者ではありませんが、こんなに繊細に様々な事象を表現できる言葉は、日本語だけではないかとすら思えるほど、日本語は繊細でそして優しい言葉です。そして、そんな言葉を発明した日本人も素晴らしく繊細で優しい心を持っているのだと思います。にもかかわらず最近の日本の言語は、どんどん乱暴でチープになっています。言葉の乱れが先なのか?心の乱れが先なのか?それはわかりませんが、美しい日本語が荒れてゆくのを感じると気持ちはすごく複雑になります。

私が日本人として誇りを持てる日本語ですが、日本人として恥と感じるのが「役人天国(権力者のやりたい放題)」を許していることです。規格に合わないから、少数だから、面倒だから、そんな理由で弱者を切り捨てたら、いずれその報いは自分に戻ってきます。人間は弱いから助け合って生きていかないと生きられないのですから。人を切り捨てると、いつか自分も社会に切り捨てられるでしょう。私の中学時代の友人にいわゆる「ホームレス」を支援している奴がいます。ありきたりの社会と怠惰な生活に背を向けて、あえて茨の道を選んで生きています。彼の活動は検索エンジンで「芳井 武志」を探していただければ、わかるはずです。それが正しいか?あるいは賛同できるかどうか?そして、実際に自分が協力できるかどうか?難しい現実は、いったん脇に置いて自分たちの周りにある「理不尽な問題」について、私たちは常に「知っておくべき=興味を持っておくべき」だと思うのです。実際に行動を起こすかどうかは、今は大きな問題ではないと思います。最も大切なのは「関心を失わないこと=無関心にならないこと」です。関心を失わずにいれば、いつかそう感じる人が多くなれば、それが世の中を動かす原動力となるはずだからです。

人間が人間らしく生きて行くために絶対に必要なのは「思い(希望や夢、思いやりの気持ち)」を失わないことではないでしょうか?その大切な「思い」を失わないために「思い」を大きく広げ共感の輪に飛び込むために必要なのは、「目に見えない物を感じ取る力(心の力)の大きさ」です。その力は「お金」、「権力」、「数字」などの「ハッキリと目に見えるもの」に頼っていると失われます。必要なものが「お金」で簡単に手にはいるようになると、それに比例して「感謝の気持ち」が失われるからです。「あたりまえ」の気持ちが強くなり、感謝の気持ちが薄くなると「お金では手に入れられないもの」の存在が見えなくなります。そこにこそ「求めるもの」があるのに気づかないまま、心は少しずつ壊れて行きます。\5,000/1本の水を飲むようになったら、汗をかいてたどり着いた湧き水の旨さを味わえることはなくなるでしょう。努力して手に入れた「水」は、\5,000/1本の水とは比べものにならない価値があるはずなのに、その人はもう二度とその価値を手に出来ないのです。庶民が汗を流した税金を無駄遣いするのは、公僕としてのあるべき姿ではありません。そして、その善悪を決めるのは「法律」ではありません。個人の心の中にある「道徳観」であり「正義感」です。ひとは「心」で動いているのであって「法律(外からの命令)」で動いているのではありません。自分の行動を決めるのは「自分自身の考え」であって、決して「人から操られている」のではありません。それが、最近は「目に見えるもの(法律や契約)」ばかりがクローズアップされて、それらよりも遙かに大切なはずの「目に見えないもの」がどんどんおろそかになっているように思うのです。人を傷つけたり、人を傷つけても平気なのは、傷つく人の姿を見ていないからではないでしょうか?傷ついた心が流す、見えない血が彼らには感じ取れないのかも知れません。「見えないほどの小さな季節の変化」すら美しい言葉に残した日本語の持つ優しさや繊細さとは、まったく対極の世界のようではありませんか?日本人が本来身につけていた繊細な「目に見えないものを見る力」=「想像力(思いやり)」が失われた結果が日本語の荒廃に現れているのだとすれば、恐ろしいことです。

小うるさいことを書いて失礼しました。なぜこんなことを書いたかと言えば、私は決して宗教家ではありませんが、良い音楽や映画に触れる度にそんな「自分も失いつつある一番大切なもの」を思い出すからなのです。オーディオでの音楽鑑賞やホームシアターでの映画鑑賞を通じ「名演奏や名作」に触れる度に、私の思いは強くなります。一人の思いよりも二人の思い。ふたりの思いよりもみんなの思い。「音楽」や「映画」に触れることで、自分の中の熱い思い=感動のバイブレーションが大きく共鳴し広がってゆく。人と人の心を結ぶための媒体であり触媒となるのが「芸術」ではないでしょうか?

だからこそ言いたいのです。ディスクに込められた「思い(熱いメッセージ)」を再現し、素晴らしい感動を呼び覚まし、あなたに一番「良い夢」を見させてくれるAV機器に必要な能力は、単なる「良い音」でも「良い映像」ではありません。ましてや「価格の高さ」ではありません。「0」と「1」のバイナリー信号に分解され、一度は命を失った「記録」に再び命を与え「目に見えないものを見せてくれる」能力です。言い換えれば、「いい音」と「良い映像」よりも、深いところにある「聞こえない音」と「見えない映像」を感じさせてくれる能力が重要なのです。音楽で言うなら「休符」や「間」の存在。映画なら「脇役」。主役の変わりはすぐに見つかっても、名脇役の変わりはそう簡単には見つかりません。本当に大切なものは、身近にあって、見落としやすく、見つかりにくいからなのです。それを見つける「力」をあなたに与えてくれる装置が一番素晴らしいのです。

たかがオーディオでありホームシアターかも知れませんが、もしそれを通じて「見えないもの」を見つけられ、共感の輪を広げられたなら、それは機械以上の価値を持てるでしょう。その装置は、何物にも代え難い代価以上の価値を持つはずです。趣味としてのオーディオとは、ホームシアターとは、機械の能力に頼らずに「そういうもの」を見いだす力を磨くことであり、高価な機器を自慢するための道楽ではありません。ソフトに残された「思い」と自分自身の「思い」のバイブレーションを合わせ込んで行く、装置を通じて自分自身と対峙する、そんな深いレベルに到達することが出来れば、それは単なる趣味以上の価値を持つでしょう。

苦労に苦労を重ねて作っていたPS8500のチューンナップモデルがようやく完成に近づいてきました。PS7200の改良モデルからスタートしたAIRBOWのAVアンプは、PS8500で新しい世代に入ります。私の今までの常識ではこんな複雑で部品の多い回路からこんなにストレートでピュアな音が出せるとは思いませんでした。500時間を優に超えるヒヤリング。途中で何度も投げだそうとしました。その度AIRBOWに期待してくださるお客様の「思い」と期待に応えたいという私の「思い」が心を支えてくれました。


一台で「写実」と「抽象」を見事に描き分けられるアンプ。ソフトに合わせて「写実」と「抽象」を切り替えられるアンプ。このアンプは、ピュアオーディオとサラウンドという垣根を越えて、すべての音楽ファンの期待に応えられる「作品」と呼べるに恥じない製品に仕上げることが出来ました。発売は、予定よりも1週間ほど遅れるかも知れませんが、お待ちいただく価値はあると思います。

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