StereoSound(ステレオサウンド) 162号「続・新レコード演奏家論を読んで」

あなたはオーディオに何を求めるのですか?高価な装置やアクセサリーをなぜ購入するのですか?生演奏はオーディオで聞く音楽よりも優れていると思いますか?日本を代表するオーディオ評論家の一人である「菅野沖彦氏」の著書「新レコード演奏家論」を読めばその答えがハッキリと見えてくる。確かに彼のレコード世代に培った知識や経験をそのまま最新のデジタル機器に当てはめるには、やや強引だと思える部分もなくはない。しかし、そんな些細なことよりも大切な「オーディオに何を求めるか!」が「新レコード演奏家論」にはハッキリと記されている。
主張の骨子となるのは、レコード(菅野氏は、音楽が録音されたディスクを総称してレコードと呼んでいる)は、生演奏とは異なるメディアであり、文化だと言うことである。彼は「生演奏」と「レコード演奏」を比較し、両者をイコールとするのは間違いであると主張する。私もずいぶんと長い間レコードは生演奏の記録であり、なにも損なわず、なにも付け加えずに「ありのまま再現させていただく」ことが、演奏家への礼儀であり、自分なりの見識で「勝手気ままに再生音を弄ってはいけない」と思いこんでいた。実際、究極の「生演奏の再演」を目差し、マイクから録音機器~再生機器に至るすべての自作と自己録再をやってみて「完全なる生演奏の再演」は、技術的には不可能ではないという確信に至ったこともある。しかし、そういう録音再生装置を作り上げた結果は、見るも無惨であった。完璧な「記録の再生」には、生演奏以上の感動はなかったからである。さらに、その装置で市販のソフトをかけるとさらに悪いことが分かった。ソフトの粗ばかり目立って、音楽がちっとも聞こえてこないのである。装置を良くすると音楽が楽しく聴けなくなる。その事実に気づいた時、私は本気でオーディオショップを畳もうとすら考えた。オーディオマニアが求めて止まない「生演奏の再演」など、絵に描いた餅同然でなんの価値もないと悟ったからであるし、第一自分が感動できない装置を売るわけにはいかないからだ。
日本のオーディオショップの中でどれくらいのお店が「新レコード演奏家論」を正しく理解できるだろう?どれくらいのオーディオメーカーが「新レコード演奏家論」を正しく理解できるのだろうか?そして、彼らが作り、彼らが売る装置やアクセサリーを買うオーディオマニアのどれだけが「新レコード演奏家論」を正しく理解できるのだろう。かく言う私もオーディオショップを始めてから15年以上「良い音」を求め続けて、やっと菅野氏の主張を理解できたくらいなのである。オーディオは楽しいが、これほど理解に至るのが難しい趣味も他にはない。
たいして参考にはならないかも知れないが、この15年間の私の足跡を簡単に紹介したい。最初の5年間は、「装置の組合せ」に夢中だった。アンプとスピーカー、CDプレーヤーとアンプ、カートリッジとプレーヤー、可能な限りの装置を聞き、組み合わせて「いい音が出る組合せ」を探し出しては、お客様にお薦めしていた。次の5年間は、「アクセサリー」と「自作」を研究していた。市販されている機器の組合せだけでは「自分の求める音」が得られないと知ったからである。スピーカーをバラしては組み立て、吸音材を増減し、真空管アンプを自作し、市販のオーディオ機器の部品を入れ替えて、音を弄っていた。それは、「買い換え」よりも「改造」の方が、音を変えるための「コストパフォーマンスが高い(より安く、より大きく音を変えられる)」事に気づいたためでもあった。そして、終わりの5年間には、総仕上げとして「自己録再」の実験を行った。録音というプロセスを知らなければ、正しい再生は不可能だと感じたからである。その結果は、すでに述べたとおりである。
この15年間私は一体何のために「音を良くしたい」と考えていたのだろう。すでに今までの文章の中でヒントは出ているから、頭の回転の速い方なら「ピン!」と来ているかも知れない。その目的はただ一つ「感動」である。店においていたハーベスHL-5の音が気になるからといって、徹夜して「ツィーターのネジの締め付けトルクを調整」したり、手持ちのカートリッジをすべて駆使して「一枚のレコードを聴いて」みたり、そのエネルギーの原動力は「感動への乾き」であったに違いない。自分が聴く音をそしてお客様に聴いていただく音を少しでも良くしようと、乾ききったタオルから最後の一滴まで絞りきるような、血のにじむような努力を重ねて逸品館の今がある。私がオーディオという商売を始めたのは、けっして金に目がくらんだわけではない。自分と同じ「感動」を一人でも多くの方と分かち合うために、私は「オーディショップ」という職業を選んだ。そして15年後。「店をやめよう」と思ったのは「原音忠実再生の行き着くところに感動はない」と知ったからである。
ちょうどその頃台頭し始めたのが「デジタルサラウンド」である。今なら当たり前になっている「ドルビー・デジタル」が、当時はアナログからデジタル(AC3)へと変遷を開始し始めた矢先であった。2chピュアオーディオに行き詰まりを感じていた私は、元来の新しい物好きも手伝って「サラウンド」と「ピュアオーディオ」の「融合」に全国で一番早く着手した。最初の3ヶ月は、AVアンプとLD/DVDプレーヤーを徹底的に聞いてみた。失望した。あまりにも音が悪かったからである。ROTELから単体のDTSプロセッサーが発売された。早速改造して、DTSフォーマットの限界の音を聴いてみた。凄かった!marantzから協力を得てPS7200を徹底的に改造した。百数十カ所の部品を取り替えてチューニングした。音を聴いた。2chピュアオーディオがばからしくなった。そこに求めていた「生演奏の再演という感動」があったからである!
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しばらくは、2chピュアオーディオから離れてサラウンドを中心にお客様に紹介する時期が続いていたが、一昨年あたりから実力のあるスピーカーが登場し、AMPZILLA2000、AMBROSIAというアンプが登場し、そして菅野氏の「新レコード演奏家論」を目にして、逸品館を開設したときの気持ちが蘇った。誤解を恐れず言うなら「すべてのオーディオは究極の自己満足」で良かったのだ。原音忠実再生を目差す必要も、生演奏に似せようという努力も必要はない。なぜなら「オーディオは生を越える感動を生み出せるから」である。菅野氏はいみじくも彼の著書の中でこう書いている「映画」と「舞台」を比べる人はいないと。私の胸から、すっと溜飲が下った。言いたかったのはこれなのだ!私が感じていたのはこれだったのだ!オーディオは「演奏の再演」であるが、断じて「コピー」ではない。オーディオファンは、自己の見識の元に「音を作って」良い。それが例え自己満足に過ぎなかったとしても「感動」が取り出せるならそれで良い。どんなに高額でも音楽的感動を与えてくれないオーディオ機器、オーディオアクセサリーには価値がない。どんなに音が良くても音楽的感動が持続しないオーディオ機器、オーディオアクセサリーに価値はない。
わたしは、たった「それだけ」のことを知るのに15年の回り道をした。それはけっして無駄ではなかったけれど、こんなに忙しい世の中でたった一つの趣味に15年間も溺れ続けるのはお薦めできない。人生は短く、やりたいことは山のようにあるからだ。近道をしたければ、逸品館を尋ねて欲しい。私たちが、少しでもお客様のお役に立てるなら、回り道した15年間はとても価値あるものになる。

2007年3月 逸品館代表 清原 裕介
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