StereoSound(ステレオサウンド) 165号「正しい音という考え方」

私は、車が好きで「カーグラフィック/CG」という雑誌を30年近く前から愛読しています。今年のカーグラフィック2007年11/12月号「舘内端(たてうちただし)」さんの「FEED UP」というコラムにオーディオにも共通すると思われる「重要な内容を持った記事」を見つけることができました。コラムの主旨は「情報とその伝達が、人間が生きる上で大変に重要」だということです。内容を少しご紹介しましょう。


自動車の運転では、ドライバーは視界を中心に、五感を駆使して情報を収集し、それを判断し、車を正しく操縦する。つまり、自動車の運転には情報が大変に重要だと言うことだ。自動車の自動化は便利だが、自動化によって自動車から伝わる情報が欠如することになる。情報が欠ける自動車や、情報が発信源から正確に伝わらない自動車は、とても運転しづらいし、場合によっては危険ですらある。
突然だが、人はどんなときに嬉しいと感じ、幸福感に満たされるのだろうか?ひとついえることは、喜怒哀楽が感じられるときだ。たとえ悲しくとも、悲しさをきちんと感じられれば、悲しみを受け止められ、気持ちが落ち着く。これもまた幸福の一つの形だ。喜びも、それを感じられてこその喜びである。喜怒哀楽は、人が人になるための必須条件といってよい。
喜怒哀楽を感じるには、対象からきちんと情報が発信され、それを受け取らなければならない。情報源の発信能力と、私たちの情報受容能力が確かである必要がある。情報の発信力の弱い、あるいは情報が適切でない自動車は、運転しても自分を確立できず、したがって嬉しくも楽しくもないのだ。静かだからといって、そのクルマが人を幸せにするとは限らない。


この文章の対象を自動車から、オーディオに置き換えて読み替えると、次のようになると思います。


オーディオを聞いているとき、リスナーは聴覚を中心に、五感を駆使して情報を収集し、それを判断し、音楽を正しく判別する。つまり、音楽を聞くためには情報が大変に重要だと言うことだ。オーディオのデジタル化(音源の標本化)は便利だが、デジタル化(標本化)によってオーディオから伝わる情報が欠如することになる。情報が欠けるオーディオや、情報が発信源から正確に伝わらないオーディオからは、音楽がとても聴き取りづらいし、場合によっては危険(大きな誤解を招く、人の感性を狂わせる)ですらある。
~中略~
喜怒哀楽を感じるには、オーディオからきちんと情報(音楽)が発信され、それを受け取らなければならない。情報源の発信能力(オーディオセットの正しい音質)と、私たちの情報受容能力(リスナーの感性)が確かである必要がある。情報の発信力の弱い、あるいは情報が適切でないオーディオは、いくら聞いても自分を確立できず、したがって嬉しくも楽しくもない(音楽的な感動は与えない)のだ。静かだから(音が良いから)といって、そのオーディオが人を幸せ(感情を豊か)にするとは限らない。


私は前号で「響きが大切」、「響きこそ音楽そのものである」という持論を展開しましたが、さらに「正しい音(音楽的に正しい情報)こそ重要である」と付け加えたいと思います。音が良いからといって、映像が綺麗だからといって、それらの機器が人を幸せにするとは限りません。なぜなら、最も重要なのは、それらが発信する「音」と「映像」が、正しく適切な情報としてあなたの「脳(心)」に届くことだからなのです。
この「正しい音」については、ここ10年以上の間私がずっと考え、探り続けていたそのものです。響きが音楽であると気付いたとき、私は「正しい音」の正体を知ることができました。「正しい音」とは、音楽を私たちの「脳(心)」に正しい情報として伝達できる音のことであって、すなわち「原音」ということではありません。今話していることと正反対のことになりますが、私が初めて「レコード演奏家論」という言葉を知ったときは、我が耳を疑いました。それは、音楽家を冒涜することに他ならないと感じたからです。たかがオーディオマニアごときが歴史的な演奏に手を加えて良いとは思えなかったからです。しかし、自分自身の「情報受容能力」が向上するに伴って、その考えは徐々に変わってゆきました。
演奏は、音楽家自身のものであって、同時に聴衆のものでもあるからです。発信者と受信者の相互作用によって音楽は作られます。受信者、つまりリスナーが存在しなければ、音楽も存在しないのです。言い換えるなら、音楽とは「音」ではなく、それを受け取った受信者の「脳(心)」の中にのみ存在するのであって、演奏者や彼らが奏でる楽音の中には存在しないのです。小説を読んだ人が、それぞれ違う感想を持つのと同じ事です。
文字の形が変わっても、小説の主旨は正しく伝わります。しかし、文章が変わってしまえば、その内容は違って伝わってしまうでしょう。再生音における「正しさ」は、これに似ていると思います。音が文字だとすれば、その形(音質)は多少変わってしまっても良いのです。変わってはいけないのは、音によって発信される内容です。簡単に言うなら、悲しい曲は悲しい曲に、楽しい曲は楽しく伝わらないといけないということです。
喜怒哀楽を正しく伝えるためには、「対比の正確さ」が何より重要です。大きい音と小さい音の対比。音色の対比。リズムの対比。すべての事象に陰陽が存在するように、音楽は楽音の対比によって伝わります。この対比(音と音の関係)さえ保たれていれば、喜怒哀楽の伝達の精度は、音の善し悪しには関係しないのです。逆に音質の向上によって、一部の音が強調されたり、必要以上に一部の音が細かく聞こえるようになると、この対比の関係(バランス)が崩れ、喜怒哀楽が正しく伝わらなくなってしまいます。「正しい音」それは、絶対的な音質ではなく、相対的な対比バランスの精度が保たれることによって実現するのです。
この対比の正しさは、音の変化の物理状況に比例します。音は出始めから、消えるまで、100%自然な(物理的に正しい)動きをしなければならず、決して自然に逆らうような動きをしてはならないのです。生演奏を再現するためのオーディオのチューニングでは、この点が最も重要だと考えています。

2007年12月 逸品館代表 清原 裕介
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