想像力という音質」というタイトルの広告を今月10日発売のステレオサウンド169号に掲載しました。その内容を要約して掲載します。
「想像力という音質」
あえて「余計な音を省略する」ことにより、聴衆の想像力をかき立て「解釈の自由度」を増し、作品に「深み」を加わる。これこそが「芸術の本質」です。オーディオ技術の進歩は、我々から「想像力」を奪い、音楽の持つ豊かさを消し去りました。「音を良くする」ことで、音楽の豊かさを失われてはいないでしょうか?
オーディオは「精密写真」であってはなりません。それは「絵画」でなければならないのです。SPがSACDより生き生きと聞こえるのは、レコードがCDよりも艶っぽく聞こえるのは、それらが「絵画」としての深い味わいを持つからです。
私たちの心の中には「想像力という音質」があります。中途半端な高音質化でそれを奪ってはいけません。「想像力から生まれる音」は、現実に耳にする音よりも遥かに「美しい音」です。やがてそれは記憶の中で美化されて、時と共に輝きを増します。そして、心に深く刻まれるのです。
逸品館の広告として、今では多くのオーディオ雑誌このような「文章(コラム)」スタイルを採用していますが、広告形式を「商品」中心のものから「文章(コラム)」中心のものへと変更したのは、2004年頃です。
「文章(コラム)」形式の広告で一番最初は、「ハイエンドオーディオの終焉」というタイトルで、ステレオサウンドに掲載しました。
オーディオが下火と言われて久しいが、去年末あたりから更に急速にHi-ENDオーディオの売り上げが落ちているという話を耳にする。その理由を私なりに考えてみたが原因は「デジタルシステムの功罪」と「CDの音の悪さ」にあることを疑う余地はない。
「デジタルシステムの功罪」とは、「安いもの」と「高いもの」の「性能差」を小さくしてしまったことである。今、100万円を超える「高級時計」と100円均一で購入できる「安物時計」の「時間精度」はさほど変わらない。その秘密は「可動部品の総数」にある。「可動部品」は「量産によるコストダウン」に限度があるし、「組み立て」コストも高いため「精密な部品」の総数が「多く」なればなるほど「コスト」は嵩む。それに対し「電子部品」は、量産によるコストダウンが著しく「作れば作るほど安くなり性能が良くなる」という大きな利点がある。つまり、ミクロな部品レベルで見れば「デジタル時計の方が部品点数が圧倒的に多い」にも関わらず、マクロなレベルで見れば「逆に部品点数は少ない」ため「製造コスト」が大幅に安く「信じられないような低価格で高性能が実現」するのが「デジタルの最大の利点」なのだ。
身近なオーディオ製品を例に挙げれば、カセットテープを使っていた「初期のウォークマン」とMDや固体メモリーを使う「現代版ウォークマン」がそれに当てはまる。「デジタル化」の恩恵を受け「同じ大きさ/重さ」でも「演奏時間は大幅に延長」され「携帯性が飛躍的に進歩」したが価格はそれほど変わっていない。
では、肝心の「音質」は進歩しているのだろうか?これについて私は、ハッキリ「NO」と言いたい。MD・メモリスティック(MP3)はおろかCDですら「携帯オーディオ機器」として使ったことはない。理由は「カセットを使ったウォークマンより格段に音が悪いから」である。データ的には、進歩したのかも知れないが、誤解を恐れず言うなら「携帯デジタル機器」は「私には聞くに値しない音」である。
5年ほど前までは、カーステレオでもわざわざCDを「カセットテープに録音して」聞いていた。それは、私が普段聞いている「CDプレーヤー」に比べて、カーステレオのCDプレーヤーの音質が格段に劣っていたからだ。確かに、現在ではそんな極端なことはなくなり、メーカー純正装着のカーステレオでもほとんど問題なく「CD」で音楽を楽しめるレベルになったが、それでも時折聞く「FMラジオ」の音質には敵わないと感じている。
ホームオーディオでも「CD」は音が悪い。それは「レコードのオリジナル録音盤」が「異常な高値」で取引されていることで証明される。もちろん経年変化に対し弱いレコードの「保存状態の良いディスク」が高値で取引されるのは「ある種のアンティック的価値」を持つからだとも言えるが、はたしてそういう理由だけで高額なのだろうか?
同一の演奏の記録を手元にある「CD」と「レコード」で聞き比べてみれば・・・、その音質差に「愕然」とする。レコードに針を落とした瞬間、「CDはまるで無価値なもの」に感じられてしまうほど「CDは音が悪い」のだ。「音が悪い」という言い方が違っているなら「心を打たない」と言い換えよう。CDの音はレコードやカセットテープほど「心を打たない」のだ。その理由は「音」だけではないかも知れないが、時としてCDに収録された音楽は「魂が抜けた形骸」のように「元気がなく」つまらなく聞こえることがある。
芸術の世界では「魂を打たない」つまり「感動しない」ものは「無価値」である。オーディオも例外ではないから、「感動できないオーディオ」に誰もお金は払わない。それが「Hi-ENDオーディオ」の人気が低下している原因だろう。 ステレオサウンド誌に投稿している「逸品館の広告のバックナンバー」に目を通して欲しい。ある時を境に「新製品の入れ替わりサイクル」がどんどん長くなり、ここ1~2年は「ほとんど固定された商品ばかりを紹介している」ことにお気づきだろうか?
断言するが、このままだと「Hi-ENDオーディオの終焉」は近い。「恐竜」のようになすすべもなく滅びてしまう前に、ユーザーのために何が出来るか「知恵」を絞るべきだ。ユーザーが作り上げた「オーディオという文化」を継承し、引き継いでゆく。それがメーカーと販売店を含めた「業界の責任」と言うものである。
この二つの広告の内容は「矛盾」しています。前者は「音が悪くてもオーディオは成り立つ」と主張し、後者では「音が悪いからオーディオが成り立たない」と述べているからです。
どちらも私の書いた文章ですが、どちらが本当なのでしょう?この二つの広告の間には「4年」の歳月があります。その間に「デジタルの音が良くなったこと」と「音質に大きく依存せずに音楽を上手く鳴らす方法を発見した」事によって、主張が徐々に変化したのです。今では、ジャンルを選べば「圧縮音声」でも、本格的なクラシックを聴けるのではないだろうか?とさえ、考えるほどです。けっして商売の存続のために「主張を曲げた」のではありません。
しかし、おおかたの「オーディオショップ」や「オーディオ雑誌」は、私が4年前に憂いた状況から脱していないようです。メーカーの受け売り、雑誌の賞を取った製品、あげくは「価格の高いもの(自分の儲けしか頭にない彼らは、これが最も売りたい)」ばかりを、いまだに薦め続けているのが現状です。そのため、残念なことに「彼ら」が薦めないメーカーやモデルの中に、良い商品が沢山登場しているのにもかかわらず、オーディオ市場(特に中~高級品、スピーカーは除く)は衰退を続けています。
AIRBOW製品やAIRBOWのアクセサリーをお使いになられたことがあるなら、私の今の主張が決して「誇大妄想」ではないとおわかりいただけると思います。また、ハイエンドショウトウキョウに参加していただいた方にも、それは感じていただけたと思うのです。しかし、どれほど大きな声で主張をしたところで、一人の声では小さすぎすべてのオーディオ/音楽ファンの皆様に主張が届きません。力が足りないことを残念に思うと同時に、不勉強で誠意の薄い業界に強い憤りを感じます。どうしてもっとオーディオと音楽を愛することが出来ないのか!とても残念です。
企業に「心がない」のも問題です。具体的な名前を上がるのは避けますが、今年の春には「史上最大の利益」を享受していた大メーカーが「経済上挙の悪化」を理由に大規模な「便乗リストラ」を行っています。自社の社員すら「愛する」ことすら出来ない企業が「音楽や映画の心を伝えられる製品」を作れるのでしょうか?彼らのTV広告を見るたびに、背筋が寒くなります。自社の社員すら愛せないのに、彼らの製品にお客様への真心が存在するかのように訴えているからです。
しかし、それも社員一人一人が問題なのではなく、企業すら牛耳る「一部の富裕層(現在の銀行の倫理観は最低)」の存在が問題なのです。彼らの欲は止めどありません。どんなに利益を上げようとも、人生に定められた時間は平等なのです。そんな簡単なことすら分からないようで、企業・経済・政界のトップは務まりません。お金儲けの欲にまみれ、やがてすべてを食い尽くしてしまうでしょう。
暗い話題は止めにして、こんなときこそ「音楽」を聞いて、「映画やテレビ」を観て気分を直しましょう!デジタルの音が良くなり、音質に頼らず音楽を上手く鳴らす方法を発見したことによって、再びオーディオで音楽を楽しめるようになりました。このように、音質に頼らずに音楽を上手く鳴らしていると、時々「音の良さなんて必要なのだろうか?」と恐ろしいことを考えることがあります。AIRBOWなら、比較的廉価~中級のシステム(セットで30万円~100万円程度)でも他メーカーの高級機よりも、遥かに納得した音質で音楽を十分楽しく聴けるからです。そこで怖々そのCDをAIRBOWの一番高いシステム(セットで500万円以上)で演奏してみると、やはり違います。何が違うのか?「音が良い」のです。切れ味やきめ細やかさなど「感覚に触れる部分」は、やはり価格なりに違います。しかし、それでも、やはり「音楽を感じる楽しさ」には、価格ほどの大きな差があるのか?分からなくなるときがあるのです。
これは私の正直な気持ちですが、オーディオや映像機器は「冷静」になると高級品は買えません。「それが欲しい!」と感じるのは、いわば直感のようなものです。熱病的と言い換えても良いかもしれません。趣味とは本来そういう「馬鹿馬鹿しい無駄遣い」をも含めるものなのでしょう。私はレースが好きですが、それは「無駄遣い」の最たるものです。同じコースをぐるぐる回って、少し速く走れたところでいったいどれほどの価値があるのでしょう?「自己満足」それ以上の価値は、一切何もありません。生産性の欠片もない、無駄なことです。
しかし、その「自己満足」や「趣味によって繋がる人間関係」にこそ「生きる目的」があると私は感じています。「自己満足が許されない人生」を生きる意味があるのでしょうか?友達が出来ない人生、人と手を取り合うことが出来ない人生にどんな意味があるのでしょう?
もちろん、きちんと自立して生活できる所までは、絶対に頑張らなければなりません。しかし、その上で無駄もなければ人生は充実しません。私たちは、囚人ではないからです。「すごい音」を聞いてそれが欲しくなり、財布の中身を見て「思い留まり」また、どうしても欲しくなる。そんな繰り返しこそ、実は一番楽しい時間なのかも知れません。買う自由、買わない自由、選ぶ自由、そんな自由に満ちている人生は、とても「人間らしく」素晴らしいじゃありませんか!そして自分の自由な選択肢を少しでも増やすために、毎日努力して頑張るのです。
最後になりますが、そうとはいえ「限りある資金」を無意味に無駄にするのはお薦めできません。このメルマガをご購読いただいている皆様の目は開かれていると思いますが、メーカーや価格、雑誌や世間の評判だけに頼るのは危険です。「失敗しない製品選び」をお考えなら、設立から一貫して「お客様の立場に立った製品選び」を貫いてきた、逸品館にご相談ください。少しでもお役に立てれば、それほど嬉しいことはありません。