StereoSound(ステレオサウンド) 170号「オーディオという趣味」

携帯電話やパソコンを使って音楽を聞く機会が多くなっている。i-podの流行も久しく、音楽の軽薄短小化は一度と後退することなく進んでいる。その潮流には逆らえず、オーディオ製品の多くもサイズが小さくなって専門店の店頭でもタンノイ・オートグラフのような大型スピーカーを見かけなくなった。さらにそこへ、「空前の不景気」が拍車をかけている。こんな市況で、昔のほどの勢いで高額な製品や大型の製品が売れるはずはない。変化こそ加速したが、これは自然の流れだろう。そして、あれほど売れていた「車」も沈滞ムードに陥った。
今までが売れすぎていた。という見方もできる。「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」という言葉を聞いたことがあると思う。日本は狭い。最高速度だって時速100キロに制限されている。にもかかわらず今の車は、なぜあれほど大型で、なぜあんなにも重く、そしてそれに逆らうくらいの馬力があるのだろう?それは、なぜ必要とされたのだろう。冷静に考えればそれはすべて「無駄」なことである。「効率」を考えれば、車は小さく軽い方が良いに決まっている。安く作れるし、エネルギーの消費も少ない。オーディオも同じで、スピーカーなんて使わずにヘッドホンで音楽を聞けばよい。その方が、よほど「効率的」だ。

腕時計がクォーツになったとき「機械仕掛けの時計」の多くは駆逐され、斜陽産業となった多くのメーカーは潰れてしまった。しかし、百貨店の「時計売り場」には今、豪華絢爛な「高級時計」がずらりと並んでいる。しかもそのほとんどが「機械仕掛け」である。「効率」・「精度」の競争に一度は敗れ、消えつつあったはずの機械仕掛けの時計がなぜ蘇ったのだろう?
食べ物をすべて携帯食にすれば(それは不可能ではない)、食事時間は「数分」で済む。インターネットをさらに普及させ、通勤途中も携帯電話(携帯端末)で仕事をすれば、仕事の効率は大幅に向上できる。余った時間であなたは何をするだろう?もう一つ仕事を掛け持って、さらなる収入を得るのも良いだろう。しかし、そんな生活を死ぬまで続けられるだろうか?
私たちはロボットではない。心があり、自由を必要としている。私たちには意志があり、好き嫌いがある。そのささやかな「欲望」を満たすためだけに私たちは生きている。しかし「効率」を求められたとき、私たちは心を閉ざさなければならない。仕事を前にして、好きだとか嫌いだとか、今はやりたくないとか、そんな個人的な感情は許されないからだ。人が人らしく生きて行くために、個人は決して「効率」を求めていない。それが求められるのは、「集団を支配する側」の論理で社会が動かされているからだ。
集団に属し、社会継続のための労働は義務であり必然である。しかし、それを忘れ「趣味」の時間に生きる時、私たちは「効率」の呪縛から解き放たれ、緩やかな流れの中で自分の時間を取り戻す。誰にも束縛されることはない。仕事をしているときと、趣味に没頭しているとき、そのどちらが「自分らしいか?」答えは明らかである。高級時計のデザインに心動いた瞬間、アクセルを踏んで車が加速した瞬間、お気に入りのオーディオのスイッチを入れた瞬間、その一瞬に私たちは「自分」を取り戻す。短くても、それは確かな「趣味」の時間である。そういう「無駄」が、心を和ませる。「無駄」を楽しめるから、私たちは生きて行ける。
しかし、時計のねじを巻く動作、エンストしないようにクラッチを繋ぐ動作、レコードを傷つけないよう慎重に針を落とす動作、そういうかけがえのない「趣味の時間(大切な瞬間)」が利便性向上のための自動化や、デジタル化によって奪われている。「無駄」を一つ減らす毎、「趣味性」が一つ消えてしまう。高級時計はそういう「無駄」を積極的に取り入れることで蘇った。しかし、効率や利便性を何よりも信奉する「大企業」が生産する車や、オーディオからはどんどん「無駄」が取り除かれ「趣味性」が失われている。車は「権威」を示すためだけのものとなり、オーディオは「頭に音楽を詰め込む」ためだけの機械になっていないだろうか?

「趣味」という立場から見たとき、「安いから」・「スペックが高いから」・「便利だから」、そういう口上は全く意味を成さない。「新型はより性能が向上している」という言葉に踊らされてはいけない。趣味とは、「無駄」を知ることから始まる。もしあなたが、その「無駄」の中に「人生の意味」を見いだせたなら、それほど素晴らしいことはない。


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