StereoSound(ステレオサウンド) 155号「テクノロジーとアートの融合(1)」

蓄音機やSPレコードで増幅なしに音楽を聴いていた黎明期を過ぎ「録音再生技術」は、軍需用の後押しもあって一気に発達、1950年頃には電気的な増幅回路を使って低歪み大音量サウンドが再現可能な私たちが「オーディオ」と呼んでいるテクノロジーの原型へと発展する。「オーディオ」はさらに「アナログ」から「デジタル」へと変遷を遂げ、世界で最初の録音再生機器の登場から僅か100年あまりでその技術は驚くほどの進歩を遂げた。そして現在「オーディオ・テクノロジー」の進歩は「音楽を聴く」という意味を「ライブ(生演奏)を聴く」から「録音された音楽を聴く」に変えてしまうほど、私たちの生活に深く浸透している。
しかし、その華麗な発展の歴史とは裏腹に、オーディオの売り上げはここ10年で半分以下に落ち込んでいる。この売り上げ集計の中には「ミニコンポ」や「ラジカセ」なども含まれているから、純粋に「我々マニアがオーディオと呼んでいる機器」の売り上げの減少はそれを遙かに上回るだろう。オーディオが衰退しつつある原因は、決してひとつではないだろうが「テクノロジーが一人歩きした」ことが最大の原因であると私は思う。例えば「写真」と「絵画」、どちらに深みがあるだろう?それは論を待つまでもなく「絵画」だ。人間の肉体から生み出された「絵画」の深みが、機械の捉えた映像でしかない「写真を上回る」のは明らかだ。なぜなら「絵画」は、画家の高い見識で「描くべきもの」と「描くべきでないもの」がきちんと「取捨選択」されているからである。もちろん「写真」においても、当然撮影者の見識によって、画像情報は取捨選択されてはいるが、その「精度」と「割り切りの良さ」ではとうてい絵画に敵わない。しかし、人間が一枚一枚描かなければならない「絵画」に比べ、工場で大量生産できる「写真」の経済効果(売り上げ)は、比べものにならないくらい遙かに大きく「経済効果の高いもの」が「経済効果の低いもの」を支配する資本主義経済下であらゆる「アート」は「テクノロジー」に凌駕、駆逐されつつあるように思う。
アートを駆逐すると同時に「テクノロジー」は、「見えるもの」をより「見えやすく」した結果、逆に「見えにくいもの」をより「見えにくく」してしまっている。人は好き嫌いが激しく、自分の考えに異質なものを積極的に受け入れようとする努力に乏しい生き物だから、自分の考えに「一致する情報」あるいは、それを「肯定する情報」を「選択、優先して取り入れる」傾向が非常に強く、逆に「否定的な意見や情報」は無意識に「排除」してしまう。もし自分の考えが非常に「特異」なものであった場合、現実社会では賛同者と出会うのはなかなか難しいし、一人の賛同者を見つけるまでに遙かに多くの反対意見を聞くことになるだろう。「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」ということわざ通り、現実社会では自分という個性を確立するまでに出会う様々な障壁が「自分を見直すきっかけ(考えをより深めるきっかけ)」となり人格の深みと奥行きを育む。しかし、インターネットには、そういった時間的、物理的な制約が一切なく、労せず全国あるいは全世界の数少ない「賛同者」と知り合えるから、「自分を見直すきっかけ」がほとんど与えられないまま、いとも容易く「結論」が出てしまう。さらに、人は浅はかで目に見える物に飛びついて見えない物を無視する傾向が非常に強く、一度出た「結論」に執着して物事を一方的にしか見なくなってしまう。例えば、私たちは肉を食うが「肉を口に入れる瞬間」だれも「その肉片が流してきた血」を見ようとしない。食われるためだけに生まれ、育ち、殺された生き物の哀れを思い浮かべたりしない。しかし、食う側(生きる側)と食われる側(殺される側)と言うように物事には必ず複数の側面(もしくは両面)があり、決して一方的な観点から判断してはならないのだ。人間は「5感」で感じた情報を元に「現実社会(現実世界)」をイメージして、そのイメージの中で生きている。逆説のようだが、人間が生きている世界は「頭の中のイメージ」にしか過ぎず、そういう意味では「夢」と「現実」の区別はない。しかし「夢」と「現実」には大きな違いがある。「夢」は、自分の中にある情報からしか構成されないが、「現実」は、自分の外にある情報から構成される。自分の「中の世界」と「外の世界」を繋くのが「5感」である。もし、自分が食する肉を自分で手に入れなければならないとすればどうだろう?肉を取るために自分の手で殺す生き物の断末魔の叫びから「命の尊さ」を知らずにはいられないだろう。それが「生きる」という「重さ」を支えることに気づくだろう。つまり、人間は「正しい手順」と「正しい5感からの情報」を脳が受け取って初めて「正しい見識」が身に付く生き物なのだ。そのスタイルは、現在に至るまで何万年も変わってはいない。
だから、インターネットから得られるような「画像」と「音声」だけの情報から「正しく現実をイメージできる」人間が突如として生まれることなどあり得ない。「バーチャルリアリティー」はあくまでも「架空」であって「リアリティー」つまり「現実」とは、似て非なるものだと明確に認識しなければいけない。「5感」を経ずに脳に届いた情報は、人間の「見識」や「感性」を育まない。現実に触れることなく一個の人間としての人格や見識を育まずに生きているなら、それはバーチャルリアリティー(ゲーム)の世界の登場人物と何ら変わらないだろう。
話が「オーディオ」とはまったく違う方向に逸れてしまっているようだが実はそうではない。もし、「画像」と「音声」だけの情報から「正しく現実をイメージすること」が可能だとすれば、それは情報を受け取る側に「高い見識(知性)」が備わっている場合に限られる。つまり、「バーチャル」の世界では、現実世界にも増して「見えないもの」を「見ようとする力(高い見識に基づく正しい創造力)」なしには、本当に大切な情報は何一つ受け取れないのだと私は思う。そして、「音」の中から「音楽を聴き取る能力」もそれとまったく同じだと私は言いたい。形骸的な「音」だけを聞いて「音楽」に触れることが出来なければ、オーディオは単なる「バーチャル」つまりTVゲームと同等程度の意味しか持たない。「耳で聞き取れる音」に執着し、それにこだわっているうちは、まだ「オーディオの入り口」にも到達していないのだ。
戻ることのできない時間の中で、多種多様な出来事に触れ、多くの人々と交流を持って生きている毎日に「どれだけ深く物事を推し量ることができるようになるか?」その能力こそが人間にとって最も重要な「見識」(知性)」、「感性」であり、人間が人間である証だと私は思う。そういう有象無象が高く昇華して形をなした時、それを我々は「アート」と呼ぶのだろう。
外界と人間を繋いでいるのが「5感」なら、「音」と「音楽」を繋いでいるのが「オーディオ」である。「アート」を伝えない「オーディオ」の価値はパソコンにも劣る。そう言う「本質的な価値」を持たない「ただの機械」が多くなったからこそ、オーディオは衰退しているのだ。MP3などの音声圧縮技術や小型オーディオ機器の進歩により、音は非常に身近になったが、逆に「音楽(アート)」は遠ざかり、音楽そのものも衰退している。「聞くべき音」と「聞かざるべき音」を正しく判別する見識を育てるのが「オーディオ」という「趣味」であると私は思うし、「オーディオ」という「テクノロジー」には「アート」を人に伝えられる力があると信じて疑わない。今こそ「オーディオ」は、「エゴイスティックなテクノロジー」を捨て「アートとの融合」を目差さなければならない。

[ART]を伝えるために[AIRBOW]は生まれました。

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