StereoSound(ステレオサウンド)157号「テクノロジーとアートの融合(3)」

「原音追求再生」と言うが、オーディオにおける「原音」とはいったい何だろう?「生音」に近い音、「演奏の雰囲気」がそのまま伝わってくるような音、自分の好きな音。それには、様々な答えが用意されているように思う。オーディオマニア100人に「原音とは?」と質問すれば、最後は禅問答のようになってしまうかも知れない。だが、少なくとも私は「原音」とは「楽器から発生する物理現象を正確に再現しうる音」と明確に定義している。今までにも何度かこのコラムに掲載してきたが「生音と同じ音」はオーディオからは、決して出せないと私は考えている。楽器などの音源とスピーカーの振動板の材質はあまりにも違いすぎるし、録音-再生というプロセスの中で、容易に音はその「純形」を失ってしまう。録音-再生のプロセスの中で発生する「歪み(音の劣化)」は、決してゼロにならないから「生とイコールの音」はオーディオからは出ないはずだ。
しかし、「原音を彷彿とさせるような自然な音」ならオーディオから出せると考える。それは、録音-再生のプロセスで発生する歪み(音の変化)を「自然に起きる変化」に似せてやれば(なぞらえてやれば)良いのだ。例えば、高音は「空気のバネ性」や「粘性」によって、音の伝達距離に比例して減衰するが、低音は高音より減衰しにくい。つまり「音は近くで聞くと鮮明に感じられる」が遠くで聞くと「高音が減衰し、濁ってぼやけた感じに聞こえる」のだ。雷鳴は近いと「バリバリ」、遠いと「ゴロゴロ」と聞こえるが、それは正にそう言う理由による。コンサート会場で「座席位置によって音の聞こえ方が変わる」のは雷鳴よりも複雑だが、同様に「自然に変化した結果」による。私たちが普段耳にしているのは、正にそういう「自然に変化(音質が劣化)した」音なのだ。この「自然に起きる変化(音質の劣化)」と「同様の音質の劣化」なら、録音-再生のプロセスで生じても「音が不自然に変化(劣化)した」とは感じられない。つまり、「音質が変わっても(音質が劣化しても)違和感のない音」=「生音に近い自然な音」なら、オーディオから再現可能だ。
他方、音源の距離が遠くなっても変化しないものがある。それは「音の関係」である。音そのものの「質」の変化や劣化は避けられないが、「関係」は変化しない。この「音の関係」について説明しよう。アコースティック楽器から音が出る時、まず楽器が振動し、その「楽器の振動」が「空気に伝わって」空気が振動し「音が発生」する。このプロセスは、非可逆的なものであり、なおかつ時間軸上で「無理な動き=物理法則に反した音の変化」は決して起きない。つまり、弦をはじく前に音が出たり、弦をはじいた後何もせずに音が大きくなったりしない。もしそんなことがあったとすれば、ニュートンの頭からリンゴが幹に向かって戻ってゆくようなことが日常的に起きることになるが、言うまでもなくこの私たちの地球上では、物理法則は決して変化しないから、当然「物理現象によって生じる音(アコースティック楽器から発生する音)」も「楽器の物理的な運動を正確に反映する」ことになる。この音の中に含まれる「物理現象の正確な反映の結果(楽器の動きの情報)」が、先に説明した「音の関係」の正体なのだ。この「音の関係」がどのようにして生じるか?あるいは、どんな関係があるか?それを説明するには、このページでは全然足りない。もし、更に詳しく知りたいとお考えなら「音の不思議をさぐる(音と楽器の科学)/チャールズ・テイラー著」が役に立つと思う。ここでは「音の関係」は「物質の物理現象に基づいて発生する」と言うことと、「地球上では物理現象(物理の法則)は一定である(変化しない)」から、音は「物理現象に反した動きの結果(楽器があり得ない動きをしたような音の変化)」を「その中」に含まない。そして、その「音の関係」は「距離や条件によって変化しない(聞き取りづらくなる=劣化することはあっても、物理的に非可逆的、非直線的な変化はしない)」ということだけを知っていただければそれで十分だ。
話は音から人間の耳に変わるが、私たちの知覚は「劣化した刺激(情報)」から「出来るだけ多くの情報」を取り出すことに長けている。見えにくいものを見、聞こえにくいものを聞くことで、自分自身の生命を守る。そういう「厳しい自然環境」の中で私たちの身体感覚は、それに耐えるように進化してきて今に至る。つまり、人間の知覚は「劣化」に対して「大きな耐性」を持っていると考えられる。簡単に言うなら「悪い音」からも「多くの情報が取り出せる」と言うことだ。では、「悪い音」から「多くの情報」を取り出すためにはどうすればよいのだろう?それは「様々に変化するもの」よりも「変化しないもの」を基準に「欠落した部分を想像して補う」ほうがやりやすい。パソコンによる解析でも「劣化した信号」の質を向上させるには「劣化の逆のプロセス」を「プログラム」して復元処理を行うが、人間の脳も「それと同じこと」をしていると考えられる。ただし、パソコンよりも情報処理能力が遅い(演算能力が低い)脳を活用して「音の復元」を行うには、「様々な変化のバリエーションを持つ音質」に注目するよりも「どんな場合にも一定の変化しかしない音の関係」を基準として復元処理を行う方が「処理が合理的でシンプル」になり「復元がより正確かつスピーディーに行える」に違いない。それが事実なら私たちの聴覚は「音質」よりも「音の関係」により敏感であると考えられる。
もしその考え方が正しいとすると、コンサートで席が悪くても「感動の大きさは変わらない」ことも説明できる。つまり、座席位置によって「音の関係」は変化しないから、「音楽的な情報」は「音質が劣化しても、音の関係が損なわれていない限り保存される」ので「感動は変わりなく伝わる」ということである。確かに、この説明はいささか乱暴でこじつけのように感じられる点も多々あるかもしれないが、それは短い文章で難解なことを説明しようとするときに、私の言葉が足りないだけで、事実とはそれほど大きく違わない。話をまとめよう。私たちは「音質」よりも「音の関係」により敏感である。「生音」に近いイメージの音をオーディオから出そうとするなら、この「音の関係」に注目し、それを保存すべき(歪ませないべき)である。「音の関係」さえ保存されていれば、「音質」は「自然に劣化」しても「音楽は正確に伝わる」。私が言いたいのは、この最後の部分である。安いシステムが、高いシステムよりも「音質は劣る」にもかかわらず「音楽的に楽しめた」としても、この説明なら納得できるはずだ。「音質」は、テクノロジー次第で向上できるかも知れないが、「音の関係」は、今はまだ「人間が聞いて確かめる」しかない。この「人間の介在」を「アートの領域」と呼ぶなら、オーディオは正に「アート」であるし、「アート」でなければならない。
「原音」に最も近いオーディオとは、「正しい音の関係」を再現できる装置であって、「高い質の音」を再現できる装置ではない。多少の音質的な歪み(自然な劣化)はかまわないが、音の関係は決して損ねてはならない。単純な回路は、複雑な回路よりも「音の関係」に乱れが生じにくく関係が損なわれにくいから、SPレコードのファンが消えない理由も、音楽ファンにアナログレコード派が多いのもこれなら説明が付く。人間が音楽を感じるときには、「よけいな音質」は要らない。だが「絶対的に正しい音の関係」は、必要不可欠なのだ。コンサートでは、座席位置によって「音の聞こえ方は変わって(音が悪い座席であっても)」も「感動は変わらない(多少は変わるが、聞き手の感性を鋭くすれば補える)」ように、オーディオもきちんとチューニングされていれば、「高い装置(音質の良い装置)」と「安い装置(音質の悪い装置)」に「感動の差」はない。音質は「アート」で補える。「アート」を追求したオーディオ製品、それがAIRBOWである。

2005年10月 逸品館代表 清原 裕介
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