AudioAccessory(オーディオアクセサリー) 125号「感動という価値」

初めて音楽的感動を体験なされたのはいつ頃でいらっしゃいますか?初めて音楽を聴いて涙を流されたのは、小学生時代?それとも中学に入られてからでしょうか?私は、中学時代にフォークソングを聴いた時だったと思います。もしかすると小学生時代にディズニーのレコードを聴いたときだったのかも知れません。確かなのは、私が初めて音楽に涙したのは「生演奏」ではなく「スピーカー(オーディオ)から流れる音楽」を聞いた時だということです。もちろん、生演奏とオーディオでは音楽を聴いていられた時間の長さがまったく違うのでフェアな比較ではありません。それでも今までに音楽を聴いて涙したのは、圧倒的に「オーディオから流れる音楽を聴いていたとき」が多いのです。歌謡曲、JAZZ、クラシック、はては民族音楽まで、感動しやすい質の私はあらゆる音楽を聴いて今まで数え切れないほどの感涙にむせびました。それは純粋に音楽を楽しんでいたときのみならず、新しい機器の購入やアクセサリーの追加でオーディオの音が良くなったときにも訪れました。私にとってオーディオとは、音楽を聴くという「受動的な感動」を与えてくれると共に、自分自身が参加して音楽をより感動的に再現するという「能動的な感動」も与えてくれたからです。私にとってオーディオは、「音楽を聴く道具」であると同時に自分で「演奏する楽器」という一面も持っているのです。
私がそうしてきたようにオーディオは、システムを変えアクセサリーを追加すると音が変わります。単純に音が変わったことを楽しめればよいのですが、オーディオマニアは理屈っぽく「変わる前と変わった後のどちらの音が正解に近いのか?」といらぬことを考えてしまいます。ディスクに演奏されたときの音(収録されている音)は、「どんな音であったのだろうか?」、「いったいどの音が正しいのか?」と悩むのです。「音楽を聴く」=「録音現場の音を聞く」、つまりオーディオの最終目的とは「失われた正しい音を再現する」それがオーディオにおける「原音追求、原音忠実再生」という一つのテーマとなっています。しかし、私はこの考え方を否定します。なぜなら、私のやり方が間違っていたのでなければ、原音忠実再生を目差しても原音楽には少しも近づかなかったからです。
その理由の一つを説明します。音楽を収録するためには、マイクが必要ですが、そのマイクの「エレメント(振動板)」には、「面積」と「質量」が存在します。「面積」が存在すれば、収録する音波を点で捉えられないため「位相のズレ」が生じます。「質量」が存在すれば、慣性の影響で収録する音波に「材質の響き(固有の振動)」が加わってしまいます。つまり、教科書通りに音波を歪みなく電気信号に変換できる「理想マイク」は、現実には存在しないのです。もし「理想マイク」が存在すれば、すべてのレコーディングには同じマイクが使用されなければなりません。しかし、現場ではレコーディングエンジニアの「好み」や「環境」に応じて、最適なマイクが選ばれています。つまり「マイクには個性=歪み」があるのです。マイクの時点で音が変わっているのですから、そこからどんなに頑張って歪みを減らし、再生を追求しても得られる「原音」は演奏された音ではなく「マイクの音」になってしまうのです。マイクは一例で、それ以外の原因でも録音-再生のプロセスで「避けられない大きな歪み」が生じています。再生時に音を意識的に「歪ませて(音作りを行って)このプロセスで発生した「歪み」を取り去ってやらなければ、「生演奏のような音」で音楽を再現することはできません。それが、私が「原音追求再生は無意味である(逆効果である=音を悪くするだけ)」と主張する理由です。最近の傾向として「システムのフルデジタル化」が高音質を実現するという考え方がありますが、システムの歪みを減らせは減らすほど「録音-再生プロセスで生じた歪み」が目立つことになり(ソフトの粗が目立ってしまう)音楽が楽しく聴けなくなってしまうのです。データー的には歪みが多いはずの真空管アンプが、デジタルアンプよりも音楽的だと言われることがあるのは、真空管アンプが発生する歪みが、時として「録音-再生プロセスで発生した歪みを打ち消し音楽性を高める」からなのです。アンプなどが発生する再生時の「歪み」は、音響工学的に見た場合「単なる歪み(マイナス)」なのかも知れませんが、実際に音楽を聴く場合には「それが必要(プラス)」になることだってあるのです。オーディオで音楽を楽しく聴くためには、「計算された歪みの付加(再生時の音作り)」が不可欠だというのが、私のたどり着いた「元音忠実再生」への結論です。
私が初めて「井上陽水」を聞いたのは、SONYのラジカセでした。学校を卒業しオーディオショップを始めて「すごいシステム!」を手に入れても井上陽水は、ずっと聞いていました。初めて「生の井上陽水」を聞いたのは40才を過ぎてからですが、オーディオで聞いた陽水と違和感はまったくありませんでした。もちろん歌謡曲は生演奏でも常に電気増幅=PAを使い、歌声も「スピーカー」を通して聞くことになるので、余計に違和感が少なかったのでしょうが、それまで千差万別な音で「井上陽水」を聞いていたにもかかわらず、音楽がきちんと伝わっていたことは、新鮮な驚きでした。
スピーカーを使わず「生楽器」だけで演奏されるクラシックやJAZZはどうでしょう?中高域の透明度と圧倒的な伸びやかさ、弦のしなやかさと切れ味の鋭さ、ホールに満ちる極彩色のハーモニー。体を突き通すようなシンバルやトランペットの音、腹にずしんと響くバスドラムの音。「生演奏」では、それらすべてがオーディオで聴くよりも何倍も素晴らしく聞こえます。生のストラドバリの音色に聞き惚れた記憶を引きずったまま、オーディオから流れるストラドバリを聴いたら、その美しさの違いに愕然とするかもしれません。残念ながら、どれほど優れたオーディオでも「生楽器」とは、「音質」にかなり大きな差があります。しかし、オーディオで聴くクラシックやJAZZは、「音質」では劣っていても「音楽的感動」なら生演奏を越えることがあり得ます。今は亡きカザルスの奏でる「無伴奏バッハ」をオーディオで聴き、現代演奏家のコンサートと比べたとき生演奏がオーディオを越えられなかったとしても私は不思議だとは思いません。3号館のオーディオで古き良き時代の名演奏を聴けば、オーケストラの生演奏を聴きたいとは思わなくなるほどです。決して生演奏や現代音楽家を否定するわけではありませんが、誤解を恐れずに言うなら「電気音楽」のPOPSやROCKのみならず、「生演奏」のJAZZやクラシックでも「オーディオで聴く音楽の方が生演奏よりも大きな感動を与えてくれる事が多い」私はそう確信しています。冒頭でお話ししたように、実際にオーディオで音楽を聴き流した涙の量の差がそれを裏付けているのです。日本を代表するオーディオ評論家の菅野沖彦氏が「新レコード演奏家論」で展開されている「オーディオは、生演奏よりも音楽鑑賞に適している」という意見に同感です。
極論を述べるならオーディオと生演奏の音を比較する必要はありません。生演奏とまったく違う音でオーディオが鳴っていたとしても「感動は正しく伝わる」からです。オーディオの世界は深く不思議です。それでも自分自身の心をフェアに開き、音楽を真摯に深く再現する努力を続ければ、それは必ず素晴らしい感動と新たな人生の喜びをあなたに与えてくれはずなのです。


Audio Accessory (オーディオ アクセサリー) 2007年 07月号 [雑誌]


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