情報(ニュース)が伝わるのが早くなったことで、年々一年が早くなるように感じます。中でも、今年のお盆から暮れにかけての時間の早さは今まででも一番でした。実際には、ハイエンドショウトウキョウ2009秋を始めとするイベントを行ったり、仕事的にはかなりの量をこなしましたから、そういう意味では充実していて「長かった」はずなのですが、それでも「アッという間だった」と感じるのです。それは、きっと「自分の時間」が少なかったせいではないだろうかと思います。
以前に「無駄が重要」とメルマガや専門誌のコラムに書きましたが、いまこそその「無駄」の重要性を痛感しています。本当に最近は仕事が多くて暇がなく、困っています。これは社長の私だけではなく、全社員に共通する「ある意味で贅沢な悩み」です。来年には、パソコンのシステムを刷新し仕事の流れが今よりもかなりスムースになると思うので、徐々に時間ができるかも知れません。いいえ、時間を作らなければならないと、そう強く思っています。人生は、仕事ばかりではないのですから。
今週は、PCオーディオの先駆けとして発売されたHEGEL HD10とAIRBOW DA53N/Special、SA15S2/Masterの比較テストを行いました。そのテストでも気付いたのが「無駄の重要性」です。「無駄」を「歪み」と言い換えてもかまいませんが、回路が理想的になり歪みが減少すればするほど「オーディオの味わいが失われる」のです。
顕著な例がレコード(アナログ)からCD(デジタル)への変遷です。レコードでは避けられなかった「アナログ的な歪み」がデジタル化によって失われた結果、レコードが持っていた「温かさ」や「味わい」が消えたのです。さらにレコードなら違う「カートリッジ」を使うことで得られた「味わいの変化」が、デジタル化によってCDプレーヤーやアンプ、スピーカーなどの大型機器を入れ替えなければ得られなくなりました。
「歪みを減らすことが音を良くすること」と信じて開発したデジタル・オーディオが何をもたらしたか?それはオーディオ・アクセサリーに注目すれば分かります。最近、レコード時代に存在しなかった高級ケーブルを始めとする高額なオーディオアクセサリーを数多く見かけます。原音追求がオーディオの目標なら、なぜこんなにも多くの「高額アクセサリー」が必要とされるのでしょう?それは、オーディオ・マニアが「味わいの変化」を「アクセサリー」に求めたからです。彼らにしてみれば、「歪み」=「遊び(無駄)」がないオーディオはつまらないのです。
これがPCになると、さらに「歪み」が減少します。すでにCDによるデジタル化で「歪み」はなくなったのでは?実はCDを始めとするデジタル・オーディオとは名ばかりで、実際にはかなりの部分がアナログ的に構成され「歪み」を発生しています。デジタル・オーディオで「音が悪くなる原因」とされている「ジッター」と「エラー訂正」をご存じだと思いますが、もしデジタル伝送が正しく行われていれば、そもそも「エラー訂正」は存在しません。それが必要なのは、データーが正しく伝送できていない証拠なのです。
現在、私たちは情報処理のほとんどをパソコンに頼っていますが、パソコン間の通信で「データーが欠落」あるいは「データーが改変」されてしまったらどうなるでしょう?大変なことになるのは自明です。それを防ぐためパソコンのデーター通信は「双方向」で行われています。送り側から「データーの塊(パケット)」を送信し、受け側がそのデーターをそっくりそのまま送り側に送り返し、送り側はそのデーターを検証して受け側に「完全に正しいデーターが届いた」のを確認してから、次のデーターを送信するのです。データーの受け渡し時に「完全なる伝送」を常に確認しているため、伝送中に「エラー(データーロス)」は絶対に起きません。
これに対しデジタル・オーディオの「データー伝送」は、相当いい加減です。デジタル・オーディオの規格が決まった当時のパソコンの能力は、今よりも遥かに劣っていたため(大型のオフィスコンピューターでさえ、現在の携帯電話にも遠く及ばなかった)「双方向」でデーターを通信するには、回線速度(通信速度)が不足していたのです。このような理由でデジタル・オーディオの伝送は「一方通行」で行われます。
「一方通行」の通信では、相手側がデーターを受け取れたか?それが正しいものであったか?を送り側の機器が検証できないのはもちろん、万が一データーが正常に届いていなくても「再送信」が行われないので、伝送中に「データーの欠落」があり得ます。通常なら、パソコンはデーターが欠落すると止まってしまいます(フリーズする)が、データーが欠落しても音が途切れない工夫が考え出されました。それが「エラー訂正」です。この「エラー訂正」が存在するおかげで、オーディオは伝送中にデジタルデーターが損なわれても、よほどのことがなければ音が途切れないのです。
しかし、「エラー訂正」が行われれば、音は途切れなくても音が変わってしまいます。送られたデーターと、再生されるデーターが違ってしまうのですから当然です。このようにデジタル・オーディオでは、デジタルでありながら「音が変わる=歪みが発生」しています。
しかし、これは「味わい」という観点から見れば、決して悪いことではないはずです。でもデジタル・オーディオがパソコン(PC)の世界に入って行くと、CD時代よりも遥かに「音が変わる原因」が少なくなります。
お尋ねしますが、オーディオでの一番の驚きは何でしょう。それは「音が変わる」ことではないででしょうか?今のデジタル・オーディオには、今おはなししたような理由で(他にも問題はありますが)音を歪ませる欠点があります。しかし、欠点があるということは感動を生む観点からすれば、決して悪いことではないのです。アナログを愛好するオーディオマニアは、それを本能的に知っているから「デジタル」を嫌うのだと思います。
何を隠そう、今ではPCオーディオ推進派の私ですが、1年前まではPCオーディオを完全否定していました。レコードと比べたときあまりにも「簡単」過ぎて、そこに「趣味性」が見いだせないように思えたからです。
ここで私の考える「趣味性」について、すこし書いてみます。私の世代では子供の頃は、「触れて遊ぶ」ことしかありませんでした。テレビゲームもなく、バーチャル(仮想現実)もなく、すべての経験は「リアル」でした。私はカートレースと魚釣りが大好きですが、それは「自分のイメージ(予想)」と「現実」が見事に一致したときの心地よさを知っている(忘れられない)からです。人間が対応できるはずがない速度で車を操り、コースを風のように駆け抜ける。たった一本の糸を通じて、見えない魚の動きを知りそれを釣り上げる。自然と自分自身が完全に一体となったときの「感動」は、バーチャルで得られる「感動」とは比較になりません。また、そういう「感動」を経験すればするほど、自分の感覚は繊細に研ぎ澄まされ、僅かな手がかりから様々な現実(現象)を知り、予想(予知)することが出来るようになります。リアルな遊びを通じて五感と脳の中にある現実の距離が近づき、自分が感じる世界と現実の世界が限りなく同一化するからです。
このように私は趣味を通じ、自分の感覚を高め、その「能力」が最高潮に達したとき、何よりの喜びを感じます。失敗を恐れずに、頂点を求め続けられること。それが私の感じる「趣味の醍醐味」です。PCには「達成感」は感じますが、それは今までに感じていた「感動」とは、まだすこし様子が違うように思うのです。
デジタルにはなかなか感じられない、アナログ的な「感動」を大切にし、可能であればデジタルの中にもその「感動」を受け継いで行きたいと考えています。