投稿者「逸品館代表 清原裕介」のアーカイブ

AudioAccessory(オーディオアクセサリー) 112号「ピュア・オーディオとは?」

ピュア・オーディオが斜陽になっている。オーディオマニアのイメージがジメジメして、しかも理屈っぽい「根暗系オタク」の代表になりつつある。ピュア・オーディオをより深く音楽を聴く手段とする「正統派オーディオファン」のお客様の心 … 続きを読む

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A&V village(エーアンドヴィ ビレッジ) 66号「趣味としてのオーディオ」

「五味康祐」という「オーディオ読本の著者」をご存じだろうか? 作家であり、人相学者であり、日本一と言われたオーディオフリークだった。彼がオーディオについて書き記した著書を読むと、たぶん「趣味としてのオーディオ」がすべて分 … 続きを読む

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STEP5 ゴール

オーディオのゴール 安価な機械から「驚くほどよい音」を出せる人もいれば、高価な機械から「つまらない音」しか出せない人もいる。高価なシステムを聴いても、全く感動しない人もいれば、ラジカセから流れる音楽に涙する人もいる。オーディオから「出せる音質」のすばらしさ、オーディオから「受けとれる感動」の大きさは「価格」に比例するのではなく「人の感性の豊かさ」と比例する。 「音楽」を聴きたいのなら「コンサート」に行けばよい。「音楽」を演奏したいなら「楽器を習え」ばよい。しかし、それは誰にでもできることではない。「オーディオ」は、音楽を演奏できない人の「音楽の表現手段」であり、音楽を演奏できなくても「奏者と同じように音楽に携わることを可能にする」素晴らしい「道具」なのだ。 「人の感性」は、「金」では買えない。一朝一夕にも磨かれない。水のしずくが岩に穴を穿つように「長い時間」続ける気力と努力のみが「感性」を熟成する。 「オーディオ」は難しく「無駄」も多いが、その「難しさ」や「回り道」が「あなたの感性」を磨く。 「オーディオ」を通じ「音」や「音楽」を考えること。「音」や「音楽」を「媒介」として「多くの人と交流」することが「あなたの感性」を磨く。 様々な機器を試し、様々なセッティングに挑戦することが「あなたの感性」を磨く。「近道」はない。... 続きを読む

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STEP3 錯聴

錯聴 聴覚に起きる「錯覚」を「錯聴」と呼ぶ。この錯聴の実際例をあげてみよう。携帯電話の効率的な音声圧縮方法を探るため、NTTが行ったノイズによる「錯聴」の検証実験だ。 まず、人間の音声を録音する。再生時に、断続的に音声を消去し「無音部」を設けると、「音声」はとぎれとぎれなる。「無音部」を増やしたり、間隔を長くすると、「音声」は徐々に取りづらくなり、最後には「言葉」として聞こえない、単なる「音の羅列=ノイズ」になってしまう。そのままの状態で「無音部」を「ホワイトノイズ」で置き換えると「言葉」としてすら聴き取れなかった「音の羅列=ノイズ」が、よみがえって「とぎれがちな会話」として聴き取れるようになるというのだ。 「ノイズの存在」を「認識」することで脳は、無意識に「ノイズに隔てられた二つの音を関連づけて聴こう」とし「存在しない音をイメージとして作りだし」切れ切れになった「言葉」を繋ぐのだ。その結果「ノイズ」にしかすぎなかった「音」が「言葉」に聞こえるようになる。 つまり、「無音」が「ノイズ」に置き換わったことで「無音」に隔てられた「意味を持たない別々の音」から「ノイズ」に埋もれた「つながりのある会話」と認識が切り替わることによって「錯聴」が引き起こされるのだ。この「錯聴」は、上の「だまし絵」で「視覚に置き換えて確認」できる。 まず、下の絵の「薄い色の部分」だけを見て頂きたい。「薄い色の図形」からは何も読み取れない。次に「色の濃い部分」だけを見て頂きたい。そこには「LIFE」という文字が読み取れるはずだ。 「脳」が「取捨選択する情報」を切り替えたことによって「結果として得られる情報=認識されるイメージ」が変わってしまうことが「視覚」で証明できる。そしてこの「情報の取捨選択」は直前の「記憶」と密接な関連がある。 どちらにしても「記憶」と「認知」には密接な関係があることは、疑いようがない。 繰り返し聞くと音は良くなる 「だまし絵」をいったん「LIFE」と認識してしまうと、「LIFEが読み取れない状態」に戻るのは難しい。それは、いったん「記憶」として「情報が取り入れられる」とその「記憶」が「その後の認識」に強い影響を与えるからだ。 「音の聞こえ」も同様に「直前に聞いた音」によって「その直後に聞く音」の「聞こえ方に大きな差」が出る。CDの同じトラックを何度も聞き返すような試聴を行うと、たぶん「何度目か以降は音の違いが分からなくなる」はずだ。それは「聞き返すこと」で「脳が音を記憶」し「後で聞く音を記憶で補完」するからである。 つまりこういうことだ。「聞こえる音が不完全な音(悪い音)」であっても「事前に聞いた音の記憶」が「不完全な部分を埋める」ため、聞き返せば聞き返すほど音は「完全な音(良い音)」に聞こえてしまうのである。 集中して「同じ音」を複数回試聴すれば「一度目に聞いた音」よりも「回数を重ねて聞いた音」のほうが良い音に聞こえることに気付くだろう。 この「記憶のいたずら」を利用すれば「店頭や試聴会での機器の音質優位性の操作」を行うことも不可能ではない。「より良く聴かせたい装置(商品)」を「後で鳴らせばよい」し、一度目と二度目の間に「短いセールストーク」を行って「二度目の試聴の集中」を高めておくことに成功すれば、よほどのことがない限り「二度目の聴いた装置が悪く聞こえる」ことはない。 努々「悪徳業者」の「巧みな罠」に嵌らないよう注意されたい。 思いこみでも音は変わる 「錯覚」は「記憶」だけではなく、「思いこみ」でも引き起こされる。それは、次の図形を見るとよく分かるはずだ。 上下の「直線」の「長さは等しい」が、直線の左右につく「矢印の方向」で「長さが違って」見える。有名な「だまし絵」の一つであるが、物差しで測ってみないことには「直線の長さが同一だとは納得できない」ほど、強い「錯覚」を引き起こす。 更に、もう一つだまし絵をご覧頂こう。 上下の線は「平行直線」であるが、「曲がって」見える。このような「だまし絵」は数多く存在し、例を挙げれば切りはないが、人間は無意識に「比較」して「認知」を行うため「比較対象」により「認知すべき対象にゆがみ(違い)が生じる」という実例である。 この「錯覚」は「記憶」とは無関係で、いわゆる「思いこみ」による「錯覚」である。当然、「音を聞く」ときにも、思いこみによる「錯聴」は引き起こされる。これらの「だまし絵」のように「避けられない錯覚」もあれば、先ほどの「LIFE」のように「意識的に認知を切り替える」ことにより、かろうじて「錯覚」を回避できることもあるが、どちらにしても機器の試聴を行うときには、「思いこみ=先入観」を捨てることが大切だ。 先入観がいかに「聞き取れる音質に影響を与えるか?」それを知る良い事例に、私の失敗談を挙げよう。 S/Aロジックのサブウーファーを導入して間もない頃、私は必死に「最適な音量」を得るために「聞こえない低音」に耳を澄まし、システムの調整を行っていた。 (実際、S/Aロジックのサブウーファーは、高域がデジタルで急峻に遮断されているため「耳に聞こえない低周波」だけが再生されるため、よほどの音量でない限り、ウーファー単体の音が聞こえることはない) ボリュームを何度もセットし直し「ここが一番音が良い!」というポジションを探し出してほっと一息ついたとき、サブウーファーを鳴らすパワーアンプの電源が入っていないことに気づいて愕然とした。サブウーファーからは音が出ていなかったのだ。 がっくりと肩を落としてS/Aロジックの村田さんにその結果を伝えると、マスタリングに際しても「イコライザーがバイパスされていて、つまみを回しても音が変わらないのに気づかず、イコライザー調整を必死でしていた」という複数のエピソードがあると慰められ「思いこみによる、音の聞こえ方への影響の強さ」を身をもって知る良い経験となった。 さらに、後日このとき調整に使っていたソフトに低音が収録されていなかったことが判明し、「明確でない音質差」に対しては「常に謙虚かつ懐疑的であること」が教訓として残った。試聴に際しては、できる限り「客観的」かつ「懐疑的」であらねばならず、自分自身の耳さえ「過信」しすぎてはいけないのである。 試聴に「測定器」を用いることは「強い先入観」を生みやすく、基本的には賛成できないが、「耳ではわかりにくい場合」には、逆に「測定器」を積極的に用いることで「じゃまな先入観」を消すこともできる。双方をうまく使い分けることが大切だ。 ... 続きを読む

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STEP2 脳と聴覚

物理現象と心理現象 実際に私たちが聞いている「音」や「音楽」は、耳に届いた音、つまり「鼓膜や体を震わせた空気の振動」のみから成り立っているのではない。耳に届いた音が「脳で再編成」されて作り出された「イメージ」を「音」だと感じて聴いている。 例えば、私たちは「夢」を見るが、目をしっかり閉じている(視覚は何も捉えていない)にも関わらず「映像を認識」する。これこそが、私たちの「脳」の働きを端的に示している。つまり、私たちが感じている「現実」とは「すべて脳が作り出したもの」なのだ。 別に大発見だとか声を荒げて言うほどのことはない、昔から良く知られていることだ。ただ、複雑すぎて説明が難しいせいか、オーディオを語るときには「脳の働きが無頓着に扱われすぎる」と感じることが多い。 しかし、「私たちが聞いている音」は「空気の振動」という「物理現象」と「脳の働き」という「心理現象」の双方が関連して「作り出されている」ことを決して忘れてはいけない。 学習と音質の関連性 もう少し話を掘り下げる。私たちが「音を聞く様」は、「CDプレーヤーから音が出る様」によく似ている。CDプレーヤーは、「ピックアップが捉えたデータ」を直接「音」として出力しているのではない。「データ」は一旦「メモリ」に読み込まれ、「CPU」が「欠落したデータ」を「補完修正演算」し「音」として「出力」している。決して「リアルタイム」に音が出ているのではない。 「データ」を「鼓膜に届く音」・「ピックアップ」を「耳」・「CPU」を「脳」・「出力される音」を「聞こえる音」に置き換えれば「人間の聴覚の仕組み」が分かるはずだ。「鼓膜に届く音」が「同一」でも「演算プロセス(脳の個性)」の違いによって「聞こえる音」は確実に異なるのだ。 この「脳の個性」を抜きにして「音の聞こえ」について語ることは出来ない。特に、「音のクリエーター=音決めする人」は、自分が聞いている音に「自分の個性=その瞬間の脳の個性」が反映されていることを忘れてはならない。 私たちが見ている「物体(映像)」も網膜に写った光が「電気信号に変換」され、視神経を経て脳に伝わり「脳の中で電気信号を元に再編成されたイメージとして実態化した物体」にすぎないと説明したが、その実例を挙げる。 生まれたての赤ん坊は「視力が弱く」、大きく動く物にしか興味を示さないが、それは「ハードウェアとしての眼球」の精度が低いのではなく「情報を処理する脳が未発達」だからにすぎない。成長とともに「脳は視神経からの情報を素早く処理」出来るようになり、「ハードウェアとしての眼球の精度は向上せず」とも赤ん坊の視力はぐんぐん向上する。 聴覚も「正しいトレーニング」により「正しい記憶」を集積することで「聞き分け能力(耳の良さ)」はどんどん向上する。トレーニングを積んだ人とそうでない人は、全く同じ音を聞いても「聞こえ方」が全く変わってしまう。 その「正しいトレーニング法」を世界で最初に「科学的な論文」として発表したのは、フランスの言語学者「アルフレッド・トマティス」だろうと思う。トマティスの著書「人間は皆、語学の天才だ」を読めば、「聴覚による聞き分け」について多くの大切なことが分かるはずだ。 最近、ネットで盛んに宣伝されている「一週間で英語が聞き取れるようになる!?」という英会話トレーニングは、トマティスが発明した「トマティスメソッド」に基づいているのは、ほぼ間違いないと私には感じられる。 もし、そうだとしたら、トマティスの名前を出さないのは「無断借用」であり言語道断だ。確かに「それ」は、明確に法律で保護された権利ではないし、そうだとしても「保護期間」は終了しているだろう。しかし「道義的な責任」はどうなのだ? この業界の悪質業者も、同じように「無断借用(パクリ)」を繰り返し、恥知らずにもそれで飯を食っている。それは、私の考えているオーディオの本質とは完全に矛盾する。情けないことだ。 パターン認識 このように、コンピューターよりも「遙かに速度の低い」我々の「脳」は、時にコンピューターを遙かに超える能力を発揮するほど「素早く」情報を分析・処理するが、それは、「脳の学習能力がずば抜けて高い」からに他ならない。 この「脳」の「優れた学習能力(記憶)」を抜きにして「音」を語ることは出来ない。では、「脳」の学習能力とはいったいどのようなものなのだろう。その基本は、「パターン認識」である。「パターン認識」とは、「情報」を「記憶」と比較することで「正解」を素早く見いだす方法だ。 「へのへのもへ」を楕円で囲むと「人間の顔」に見える。しかし、コンピューターには、それは「へ」・「の」・「へ」・「の」・「も」・「へ」という「ひらがな」が楕円の中にバラバラに並んでいるとしか「認識」されないし、実際、図の認識としては「パソコンの認識」が正しいのは言うまでもない。 パソコンには「ひらがな」にしか見えない「「へのへのもへ」が「人間が見ると」情報として全く似ても似つかない「人間の顔」に見えてしまうのは「脳が記憶している人間の顔の特徴」と「へのへのもへ」の輪郭が「似ている」からだ。 つまり、「脳」は「視神経から送られてきた情報(電気信号)」と「記憶されている人間の顔の情報(電気信号)」を「照らし合わせた」時、その「パターンに共通性がある」と判断し「へのへのもへ」を「人の顔」に見せてしまうのだ。 細かく言えば、「脳」は「へ=眉毛」・「の=目」・「も=鼻」・「へ=口」にそれぞれのパターンが「一致する」と判断(間違った判断だが)しているわけだ。 画像を逆さまにすると「顔」は「顔」に見えるが、「へのへのもへ」は、もう「顔」には見えない。それは「へのへのもへ」の「輪郭」が「人間の顔の輪郭」と「違ってしまった」からである。 「似たもの」を探して情報を「瞬時」に「特定」・「補完」して、人間の限られたハードウェアの能力を最高の効率で発揮させるのが「パターン認識(ソフトウェアとしての脳の働き)」のすばらしさである。 このように、コンピューターよりも「遙かに速度の低い」我々の「脳」は、時にコンピューターを遙かに超える能力を発揮するほど「素早く」情報を分析・処理するが、それは、「脳の学習能力がずば抜けて高い」からに他ならない。 この「脳」の「優れた学習能力(記憶)」を抜きにして「音」を語ることは出来ない。では、「脳」の学習能力とはいったいどのようなものなのだろう。その基本は、「パターン認識」である。「パターン認識」とは、「情報」を「記憶」と比較することで「正解」を素早く見いだす方法だ。 「へのへのもへ」を楕円で囲むと「人間の顔」に見える。しかし、コンピューターには、それは「へ」・「の」・「へ」・「の」・「も」・「へ」という「ひらがな」が楕円の中にバラバラに並んでいるとしか「認識」されないし、実際、図の認識としては「パソコンの認識」が正しいのは言うまでもない。 パソコンには「ひらがな」にしか見えない「「へのへのもへ」が「人間が見ると」情報として全く似ても似つかない「人間の顔」に見えてしまうのは「脳が記憶している人間の顔の特徴」と「へのへのもへ」の輪郭が「似ている」からだ。 つまり、「脳」は「視神経から送られてきた情報(電気信号)」と「記憶されている人間の顔の情報(電気信号)」を「照らし合わせた」時、その「パターンに共通性がある」と判断し「へのへのもへ」を「人の顔」に見せてしまうのだ。 細かく言えば、「脳」は「へ=眉毛」・「の=目」・「も=鼻」・「へ=口」にそれぞれのパターンが「一致する」と判断(間違った判断だが)しているわけだ。 画像を逆さまにすると「顔」は「顔」に見えるが、「へのへのもへ」は、もう「顔」には見えない。それは「へのへのもへ」の「輪郭」が「人間の顔の輪郭」と「違ってしまった」からである。 「似たもの」を探して情報を「瞬時」に「特定」・「補完」して、人間の限られたハードウェアの能力を最高の効率で発揮させるのが「パターン認識(ソフトウェアとしての脳の働き)」のすばらしさである。 錯覚 「パターン認識」は、私たちの「知覚」にとって非常に重要な役割を果たし、無くてはならない「便利な働き」であるが、逆に、その「曖昧さ「や「思いこみ」から様々な「錯覚」を引き起こす原因ともなってしまう「もろ刃の剣」的な存在でもある。 私たちは「写真」を見て立体的な奥行きを感じるが、写真はあくまでも「平面」で、そこに「立体的な起伏」は存在しない。「遠い物は小さく見える」という「記憶されたパターン」に導かれた「無意識の思いこみ」が「奥行き」という「擬似的な立体感」を与えているにすぎない。それが「錯覚」だ。「へのへのもへ」が「人の顔」に見えたのも「錯覚」だ。 「錯覚」は何も「視覚」だけに起きるのではなく、五感全ての感覚で起こり得るし、「他の感覚の情報」によって「錯覚」が引き起こされることもある。なぜなら、五感で得られた情報は、脳の中ではすべて「神経を伝わる電気信号」にすぎないからだ。 難しい話になるが、脳は「五感から届いた電気信号」を「明確に個別化して識別し処理」しているのではない。 例えば「両眼」の「神経」は、脳の中で「一度重ね合わされるように近づいてから脳に届いて」いる。それは「神経の距離が近づくこと」で「左右の神経から漏れている電気信号がかすかに重なる」ことが重要だからだ。 一つの「物体」を左右の「眼球」で捉え、それが神経の「距離が近い部分」に「電気信号」として届き、その電気信号が「かすかに重なり合う」と「電気信号のほんの少しのずれ」が「脳内部で干渉」を起こし「脳内部に電気信号の干渉縞」を生じさせる。 「脳」は、非常に似通った左右の眼球の信号(同じ物を見ているため左右の眼球の信号はほぼ同一)を「別個に演算」する愚行を犯さず「干渉」という、見事な「技」を駆使して「瞬時」に、しかも「非常に高精度」に「信号の分析」を行っているのだ。 まだ、完全に解明されたわけではなく、私の勝手な考えにすぎないが、「五感」への様々な「刺激」によってもたらされた「神経の電気信号」を「脳内部に構築された神経ネットワーク」を通じて「干渉」させることにより、あるいは「記憶」という「抵抗(スイッチ)」でその信号の伝達を「調整」することで得られた「脳内部での電気信号の干渉縞」が、我々の「イメージ(知覚)」なのかもしれない。 「脳」この「生体コンピューター」の働きは今世紀さらに深く解明されであろうが、それがどうあれその「神秘的なすばらしさ」は筆舌に尽くしがたい。オーディオを通じてその「神秘」に触れるものまた一興である。 ... 続きを読む

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